城づくりは鉄砲とキリスト教布教によって飛躍的な進歩をとげた

戦国の城は単独ではない

地域支配の拠点から支城制のネットワークへ
戦国時代の城郭は、単独では成立しない仕組みである。古代から室町時代中頃までの城や舘は、いわゆる農耕地を掌握し、地域の支配拠点であった。すなわち地域という面の中心だった。

ところが戦国時代になると、荘園公領制という土地支配が崩れて、武家の有力者が領主という立場で一円的一元支配をする。有力士豪である国人領主層の登場である。そうした国人領主層からは守護代に就任したり武力で領土を拡げ、戦刷大名へと成長する者が現われる。

こうして登場する戦国大名はその分国を支配するため、本拠である居城を拠点に、地域ごとに土豪たちと結び、また有力支城間を結ぶ本城、支城、枝城、端城といったネットワークをつくらねばならなかった。

「伝えの城」といって狼煙で情報を伝える城、「繋ぎの城」といって数千、数万の兵勢を移動させるための中継基地の城、敵対する城を攻めるための前線基地となる「付城」なども盛んに築かれた。


見る人を怯ませる構成
城、とりわけ織豊期から江戸時代の城郭は、戦闘面と並行して、人々に武威を強調する「見せる城」でもあった。威風堂々とした城主の権力の象徴として、建築物には数々の工夫が凝らされた。

見せる城には、威圧すると同時に攻めにくくする工夫もあった。福知山城の石仏、石塔の石垣への転用も、攻め手を怯ませる。建物でいえば、最も攻め手を跨路させるのは、石落、出窓、狭間である。姫路城を例にとれば、菱の門を入り、真直ぐに「いの門」に向おうとすると、左側に鉄炮狭間である銃眼がびっしりと並び、銃撃を避けることができない。

天守曲輪に入れば、角々の頭上には、大きく口を開いた石落がある。これら銃眼、石落がすべて戦闘時に機能する筈はない。その城の防御能力以上に、どこの城郭も過分に攻撃体制をつくって来る。このような攻撃用の仕組みは、見る人を、ひいては敵の侵入にあたり侵入者を怯ませる効効果を狙ったもの、といえる。

こうして、どこまでが本来想定している城の攻防ラインか見出すのも、城を訪れる楽しみの城一つだ、といえる。


キリシタンゆかりの城
日本に数多くの城郭がつくられた戦国時代は、宣教師によるキリスト教布教の時代でもあった。

1543年に種子島へ鉄砲が伝来し、その6年後の1549年、ザビエルによって日本に初めてキリスト教がもたらされた。これら鉄砲とキリスト教布教によって、城づくりは飛躍的な進歩をとげたといわれる。

従来の弓矢や刀の数十倍の殺傷能力をもつ鉄砲は、城郭を山城から平城へと変貌させ、そのかわりに天守が普及していく。各地の大名たちは、こぞって鉄砲を手に入れようとし、ポルトガル商人を牛耳る宣教師の布教を許し、自らも入信して多数のキリシタン大名が生まれた。

ポルトガルがもたらしたものは、武器や宗教だけではなく、最新の築城技術もともにもたらされたのである。

よって、鉄砲とキリスト教、城郭は三位一体といってよく、決して切り離して語ることはできないといってよい。 城郭の発展に、鉄砲やキリスト教がどのような影響をもたらしたかについて、顧みることを目的とする。

キリスト教を最も保護した織田信長、キリシタン大名を代表する高山右近、キリシタン史最悪の一揆を起こした天草四郎、彼らの生きざまを、城を通してあぶり出してみたい。


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