日本の城の特徴と歴史をまとめた一覧表│近畿の城

近畿の城一覧表

寺院からの転用石の石垣大和郡山城
奈良県大和郡山市城内町
築城者:筒井順慶
遺構: 石垣、天守台、堀

大和郡山地方では、中世末期まで豪族たちが砦や陣屋を築いて互いに割拠して勢力争いをくり返していました。天正8年(1580)筒井順慶が織田信長の力を背景に、郡山の地に築城を始めました。

その後、豊臣秀吉の時代となり、秀吉は同13年9月に弟秀長に、大和・和泉・紀伊で百万石と称する封禄を与え、郡山に豪壮雄大な城郭を構築させました。

紀伊国根来寺の大門を移して城門とし、近在の石仏、石塔まで集めて石垣を築いています。天守台下にある「逆さ地蔵」はその一つであったものです。今日に見る郡山城跡の規模、遺構はすべて当時からのものとわれています。秀長は、城下町の整備と繁栄にも力を注ぎました。

この地だけに市を許したため、各地から多くの商工業者が移り住み、今日残っている堺町・奈良町・今井町などの名は、当時の先進都市から移った商人を示しています。また紺屋町・車町・鍛冶町などの町名は、すべて職業、商業の専有権にも相当するものを与えたなごりです。

江戸時代の城主は、水野勝成・松平忠明・本多政勝・松平信之ら、いずれも徳川譜代の功臣でした。享保9年(1724)から柳沢吉里が入封し二代信鴻、三代保光といういずれも著名な文人学者揃いの城主となりました。
現在城跡には、昭和58年から62年にかけて復元された追手門、追手向隅櫓などがあります。


豊臣秀吉が没した伏見城
京都府京都市伏見区桃山町大蔵45番地
築城者: 豊臣秀吉
遺構: 堀

伏見城は、文禄元年(1592)から伏見桃山指月の丘に、豊臣秀吉が造り上げた自分の隠居所としての城といえます。桃山文化の粋を集め、豪壮華麗な殿堂を造り上げた名高い城ですが、慶長元年(1596)7月12日の大地震で全城崩壊してしまいました。

同年、再び東方の木'勝山に築城します。しかし同3年8月18日、秀吉はこの城で没しました。翌年豊臣秀頼が大坂城に移ると、代わって徳川家康が入城し、秀頼の後見人として政務をとります。同5年関ケ原合戦の折、西軍の放った火で伏見城は炎上しました。

戦いの後、家康は伏見城を再建し、同8年の将軍宣下もここで受け、江戸に幕府を開いたのです。とはいえ、家康は将軍職を秀忠に譲って駿府に隠居するまで、ほとんど伏見で過ごしています。同11年に天守も再建されましたが、元利元年(1615)大坂夏の陣で豊臣氏が滅ぶと伏見城は不要となり、同5年に廃城とされました。

寛永2年(1625)にはすべての破却が完了し、城跡には数千本の桃の木が植えられたため、桃山の名が起こったといわれています。昭和39年に天守が復興されることになりました。しかし、かつての本丸跡は明治天皇の御陵となっていましたので、やむなく復興天守は、旧伏見城お花畑山荘の地に建てられています。
内部には秀吉が造った黄金の茶室も再現されています。


攻め難く守りやすい福知山城
京都府福知山市字内記5番地
築城者: 明智光秀
遺構: 櫓、石垣

京都府北西部の丹波盆地に位置する福知山に、初めて近世的城郭を築いたのは織田信長の武将であった明智光秀です。天正7年(1579)のことでした。場所は盆地の横山といい、城は由良川と土師川の合流点近くの丘陵上に建てられました。旧横山城を攻略して城を修築し、福知山城と改名したのです。

築城にあたって、付近の集落の墓石や石塔を集めて石垣に用いました。現在も、天守台や石垣に五輪塔、宝筐印塔や梵字刻印の石がはめこまれているのを見ることができます。

慶長5年(1600)には有馬豊氏が入封、この時代に堀と土居に囲まれた「総構え」の城郭が完成しました。

福知山城の天守は、大天守・小天守・続櫓・南御門・菱櫓から構成されています。居住性を備えた初期望楼型の特徴を示していましたが、明治政府の近代化の波のなか明治4年(1871)に取り壊され、わずかに銅門・番所・石垣が残されました。

昭和60年に2層2階の小天守と続櫓が、翌61年に3層4階の大天守が完成しました。内部は郷土資料館として展示公開されています。

本丸・天守の東側にある井戸は、直径2.5メートル、深さ50メートルで、日本一の深さです。
地下の水脈まで掘り下げており、今も清らかな水をたたえています。


「茄糒」で知られる井伊氏の城彦根城
滋賀県彦根市金亀町1-1
築城者: 井伊直勝
遺構: 天守、櫓、門ほか

慶長5年(1600)の関ケ原合戦で、朱塗の具足、いわゆる「赤備」をまとって奮戦した徳川家康の家臣井伊直政は、翌年石田三成の旧領を与えられて居城佐和山に入り、18万石を領しました。

しかし佐和山は中世の山城で、交通が不便なうえに、戦闘形態が鉄砲主体の時代には不適当な城と判断して、新たに近世城郭を建設しようと構想します。ところが同7年、直政は関ヶ原の戦傷がもとで没しました。

後を継いだ直勝はまだ幼少でしたので、重臣の合議で計画を進めることになります。家老木俣守勝の進言により、金亀山(彦根山)を最適地として同8年から築城工事を開始しました。

幕府の命で、7ケ国12大名の助役も決まり、天下普請が開始されます。大坂城との合戦が近いこともあり、徳川方の第一線の基地として急を要するのです。そのため資材は、近くの城跡から集められました。

天守には大津城の廃材を使用しました。そのほか、櫓や門、石垣なども小谷・安土・大津・長浜・佐和山などの近隣の諸城から移したといわれています。

そのうち大坂の陣が起こって工事は中断されました。大坂の陣終了後は、もう急ぐこともないので、ゆっくりと整備し、元和8年(1622)に完成しています。

彦根城築城当時は、禄高18万石の井伊家でしたが、病弱の兄直勝に代わり、弟直孝が大坂の陣には出陣しました。そこで数々の戦功を立てたので、兄に代わり彼が井伊家の後継者とされます。加増され35万石の大藩となりました。

以来、彦根藩は一度の国替えもなく明治維新まで続きます。代々の藩主は幕府要職に就いていますが、幕末までに井伊家から、直澄、直興、直幸、直亮、直弼の5人が大老になっています。

昭和26年に当時の文部省により、天守をはじめ各櫓力重要文化財に指定されました。同27年に天守は国宝に、同31年には彦根城一帯が特別史跡に指定されています。

彦根城天守には特異な点があります。その一つは最上階に唐破風を用いていることです。さらに、周囲を回れない勾欄付廻縁があるのもほかに類例を見ません。また2階まで花頭窓を多数配列しているのは、彦根城が唯一のものとなります。多くの天守の中でも、もっとも技巧をこらした天守といえるでしょう。

天守と並ぶ彦根城のユニークな建造物に天秤櫓があります。廊下橋を挟んで左右対象の位置に2層の櫓があることからこの名が付いたといわれています。

また二の丸の佐和口多聞櫓は、西棟力現存の重要文化財で、東棟は昭和35年に再建されたものです。堀と櫓の白壁がよく調和した美しい景観です。西の丸に足を運ぶと、かつて浅井長政の小谷城の天守を移築したといわれる3層櫓があります。

ただし、現在のものは江戸時代初期に再建されたものです。西の丸からの散歩道を行くと名勝「玄宮園」に出ます。「玄宮園」は4代藩主・直興の下屋敷であった「槻御殿」の庭園で、琵琶湖の水を引き込んだ池泉回遊式の大名庭園です。ここから見る天守も、一段と味わいのある趣です。




天下人変遷の巨城大阪城
大阪府大阪市中央区大阪城1-1
築城者:豊臣秀吉、徳川秀忠
遣構:再築時の本丸・二の丸、櫓、蔵、門など

大坂(大阪)城の位置する場所には、かつて一向宗の総本山として石山本願寺がありました。

しかし織田信長との長い戦いのすえ、本願寺は天正8年(1580)に紀州へ移っています。信長に代わって天下人となった豊臣秀吉は、本願寺の跡地に、天下人にふさわしい壮大な居城を同13年に完成させました。

それが大坂城です。秀吉没後、元和元年(1615)の大坂夏の陣で、惜しくも炎上してしまいます。その後徳川家康が、同6年から10年を費やし、天下普請で西国64藩の大名を動員して、規模日本一の新しい大坂城を構築しました。つまり、時代は異なりますが、2つの大坂城が存在したことになります。

2代目大坂城には、落雷が度々ありました。
万治3年(1660)に青屋口の火薬庫、寛文5年(1665)は天守に、天明3年(1783)には大手門多間櫓に落ちています。明治元年(1868)正月の戊辰戦争により城は炎上、そのまま廃城となってしまいました。

豊臣秀吉時代の大坂城は、石山本願寺の曲輪をそのまま使用して、本丸、二の丸、三の丸を造っています。三段からなる石垣上にある本丸には、5層の天守がそびえ立ち、本丸を囲うように二の丸や諸曲輪や堀が配置され、まさに難攻不落の城でした。
その石垣は、総延長約12キロにも及んだ総曲輪となっています。四天王寺に通じる入口には空堀による総構え堀が掘られ、南東入口に真田丸の出城力精えられていました。

徳川幕府は、元和元年の夏の陣終了後から大坂城の全面改築を開始します。秀吉の大坂城を埋めてしまい、本丸以下すべての曲輪の配置を変え、石垣の高さも秀吉時代の倍にしました。

天守も石蔵の地下を含め、5層6階の総塗篭の白亜のもので、これも秀吉時代のものより、一回り大きいものでした。土木工事には築城名人と呼ばれた藤堂高虎の指揮のもと、西国の64藩が動員され、建築工事の指揮は、小堀遠州がとっています。

石垣や堀、天守などの規模はいずれも秀吉の城を上回り、幕府の威光を示すものとなりました。この工事も寛永6年(1629)にはほぼ完成しています。

以後、大坂城には城代が置かれました。現在の大阪城は、昭和6年の築城で、3代目となります。屏風絵を参考にして秀吉時代の外観を忠実に再現したものです。櫓や門、石垣など残存の建造物は多くありますが、なかでも興味深いのは、蛸石や肥後石などの巨石や、石垣の各所に見られるさまざまな刻印でしょう。

蛸石は、城内第1位の巨石で、およそ36畳敷で推定重量130トン。岡山藩主池田忠雄が担当したもので、備前産の良質花崗岩が用いられています。二の丸と本丸をつなぐ桜門桝形内にあります。

金明水井戸屋形は、豊臣秀吉が水質を良くするために、黄金の延べ棒を水底に沈めたといわれているもので「金明水」の名がつきました。重要文化財に指定されており、本丸天守入口にあります。金蔵もすぐ近くにありますが、入口はもとより、床・天井までが盗難や火災予防のために三重構造になっています。

天守の楼上から眺めますと、河川に囲まれて立地する地形が手に取るようにわかります。また博物館となっている天守内部の展示物からは、当時の豪華絢燗な生活のようすがうかがわれ、往時の名城の姿が浮かんできます。


壮麗無比な西の鎮姫路城
兵庫県姫路市本町
築城者:羽柴秀吉、池田輝政
遺構: 天守、櫓、門ほか

姫路城は、元弘の変(1331)の時、赤松則村が上洛の途中、姫山に陣を構えたことに始まります。貞和2年(正平元年・1346)則村の子貞範力蝿張をし、室町時代を通し赤松氏が居城しました。

戦国時代になり、中国征伐の羽柴(豊臣)秀吉が播磨三木城を滅ぼして姫路に入城します。天正9年(1581)浅野長政に縄張を命じ、旧姫路城を大改修しました。

関ヶ原合戦の後、徳川家康の娘婿にあたる池田輝政が入り、以後しだいに城は整備されていきます。慶長14年(1609)には5層6階地下一階の大天守を完成させました。本丸・二の丸・三の丸・西の丸を内曲輪とし、平地に中曲輪・外曲輪を配置し、三重の螺旋状の堀を巡らせたのです。元和3年(1617)になって本多忠政が入り、城主の居所を三の丸へ移して、東御屋敷・西御屋敷などの居館を構えました。

標高46メートルの姫山山頂に天守以下82棟の櫓門、土塀などが現存しています。このように多くの建物が完全に残っていることから、近世城郭の全貌を知ることができます。天守は国宝、ほかは重要文化財に指定されました。天守は大天守と東・西・乾の小天守3基を渡櫓で結んだ連立式といいます。

姫路城はなぜ美しいのでしょう。城としての美の構成から見ますと、3点に分けられます。

まず第一には経始・縄張的な構成です。姫路城を正面、すなわち大手門から見ますと、雛段状に、三の丸・二の丸・山里曲輪・備前曲輪・天守曲輪と、5段階に整然と曲輪が構成され、実際より大きく、堂々として見えます。

このような縄張を階郭式と呼び、また兵法では「一二三段」と呼ぶ方式です。この配置は、建物を城外から見通しよく見せるばかりではなく、上下の変化によって動きのある美の均衡を演出しているのです。

第二に建築の装飾的な構成です。その一つは城内の道に見られます。道の両端には塀が施され、そこには丸・三角・四角・将棋型の狭間がデザイン的に開かれています。

以上2つの美は、見た目の美しさですが、第三に歴史的背景を踏まえると、同じ景色を見ても味わいが深まります。特に、家康の孫・千姫が住んだという、西の丸化粧櫓から望んだ天守群の美しさは、目を見張ります。

姫路城の見どころはたくさんあるのですが、ここでは城の持つ「七不思議」を探訪することにしましょう。

一は「西の丸の化粧櫓」です。千姫が、本多忠刻に嫁したときに造られた櫓です。通常の城には、化粧櫓などというものはありません。

二は「天狗の置文」、築城に際して天狗が置文をして、注意事項を教えてくれたそうです。それを守らなかったため、城主池田輝政は病に倒れたといいます。

三は「天守の妖怪」、天守にはヲサカベという妖怪すんでいるといいます。

四は「傾いた天守」です。
東側から見ると天守が傾いているように見えます。

五は「桜井源兵衛の墓」、天守を造った大工が桜井源兵衛でした。源兵衛は城普請の後に自殺してしまいました。その墓が城内にあります。

六は「お菊井戸」です。播州皿屋敷のお菊さんが飛び込んだ井戸といいます。

七は「腹切丸」で、曲輪の一角にいかにも切腹場のように見える場所があるのです。
伝説に彩られた姫路城、中央の大天守と三つそうぬりの小天守からなる天守群は、白亜の総塗籠であることから、「白鷺城」と称され、華麗な姿を見せています。


兵法軍学を駆使した赤穂城
兵庫県赤穂市上仮屋本丸内旧城1番
築城者: 浅野長直
遺構: 天守台石垣、堀

赤穂城は天正年間(1573~91)に備前国岡山の宇喜多秀家が砦を築き、家臣の津浪法印を配置したのが始まりとされています。場所は現在の城域の北寄であったといいます。

浅野家が入封したのが正保2年(1645)、そして城の大改築を行いました。旧城の南に新城の構築を計画、これが今に残る赤穂城で、海岸に近く、本丸・二の丸・三の丸とも同一平面上に築かれた変形輪郭式平城となります。

縄張は甲州流軍学者の近藤正純が担当し、山鹿流軍学の祖・山鹿素行の指導も受け、2つの軍学の実践として完成した赤穂城は、近世前期におけるもっとも新しい築城遺構の一つとして、城郭史上でも貴重なものです。13年の歳月を費やして寛文元年(1661)に竣工しましたが、この時天守と一部の隅櫓がまだ未完成でした。

城は明治18年(1889)ごろ、隅櫓や城壁などが取り壊され、堀も埋め立てられて荒廃しましたが、昭和30年に大手門と大手隅櫓、城壁の一部が復元され、さらに平成8年には本丸門、本丸跡には御殿の間取りや池泉も復元されました。天守台が南東隅に現存しており、二の丸跡も整備中で、まもなく新しい城跡公園として生まれ変わろうとしています。

そのほか城内には大石良雄の旧宅長屋門や大石神社があり、清水門東には赤穂市歴史博物館があって、貴重な資料が展示されています。


築城の精鋭結集の堅城篠山城
兵庫県篠山市北新町
築城者:徳川家康
遺構:天守台、石垣、堀、馬出、土塁

篠山城は、江戸時代初期の慶長14年(1609)に、徳川家康が篠山盆地に築城した城です。

大坂城に対する軍事的拠点と、豊臣恩顧の西国大名への拠点として築きました。そのため、親藩大名松平康重を篠山に封じます。築城の普請奉行は池田輝政、縄張は藤堂高虎が命ぜられ、助役として山陰・山陽・紀州・四国・九州の15ケ国大名が命ぜられています。

城郭は篠山という小山を利用した平山城で、東西・南北ともに約400メートル、総面積約16万平方メートル、城の規模としてはさほど大きくはありませんが、当時の築城技術の粋を凝らした壮麗な城でした。

城郭は、藤堂高虎が得意とした方形の縄張で、輪郭式と梯郭式を併用した、ほかに類例の少ない城郭遺構といえます。特に南側の馬出の土塁は完全に残っています。また東側の馬出が、その旧態を残していることなど貴重なもので、昭和31年に国の史跡に指定されました。

この城ができた時に家康は堅固すぎると責めたといわれ、そのためか天守台は築かれましたが、天守は築かれませんでした。本丸・二の丸はすべて多聞櫓であったそうです。

二条城の書院を模したといわれる大書院も昭和19年に失火で焼失してしまいました。しかし、平成12年4月に再建され、現在公開中です。今も壮大な石垣や幅43メートルという外堀が残され、また城下町もよく保存されています。


高取城
現在は石垣のみ残る高取城だが、かつて標高584mの高取山の山頂に築かれた城は、城郭の広さ60ヘクタール・周囲30mのとんでもない規模の山城だったという。27の櫓や33の門など近世の山城では異例の規模で、日本一の山城とされている。

その全容は2005年に高取町のボランティア団体が奈良産業大学に依頼し、学生約10名を中心に結成されたCG再現プロジェクトの成功により伺い知ることができる。

『高取御城規』という古文書から書き起こした194カ所の復元図をもとに、約1年半にわたってコンピュータ150台を駆使し、まるで城内を歩いているかのようなCG動画を再現したのだ。天空に聳えたつ城郭都市の全容をCGで予習した上で、現地へ足を運べばその感動もまたひとしおである。



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