城の立地や歴史、堀など築かれた意味を知ることが最初はおススメ

城を訪れたらすること

城の立地、平面と立体の構成
まず城を訪れたなら、城のある自然条件、城が築かれた当時のその地の地域史、交通などを考え、どうしてここに城が築かれたのかを考えてみると、様々な政治的、経済的、軍事的な目的が見えてくる。

河川と街道による運送は、城の立地を考える上で品も重要だ。とりわけ城に用いる石材、大型木材は陸送運搬は不可能で、浮力を利用した水運が不可欠だ。

城の平川構成を縄張という。これは、城の立地が決定したのち、城内を目的別にどう区画するか、杭を打って繩を張って決める「縄打」に由来する。純打した区画内は神聖な空間「依代」となる。地鎮祭の折、竹杭を立て並べ縄で区画して神を呼ぶ行為と同じだ。

縄張はいつしか全体プランの平面を指す用語となったが、江戸時代の兵法書をよく読むと、全体プランよりむしろ、塁壁の屈曲法や、虎口(出入口のこと)における攻防のための様々な工夫、つまり部分部分の凹凸などの形を述べている。すなわち、縄張図(今でいう平面図)を作成することにより、そこに秘められた、攻防戦を意識した知恵と工夫のプランを知ることができるのである。

ところが、城は丘や山に立地することが多く、平地でも塁壁を高くして、ぐるりとめぐらせる。平面プランだけでは城の防御、攻撃の形態がどのようなものか、どのような仕組みなのか判らない。かつて城を築く前段階とか、幕府へ補修を願い出る折、絵図と共に立体的な木図や塑図(粘土でつくった立体図を提出、許可を得た。

築城前や補修程度を決めるまでは、もっぱら土図版をもって試行錯誤を繰り返した。土図版とは、木枠の容れ物に入れた土砂を土図小手で整形する立体設計版をいう。今でいう釉庭のようなものだ。

士図版で城の型が決まったら、木図をつくり、許可を得るため幕府へ提出した。より深く城の構成を理解するためにも、城を訪れて縄張図を作成しようとする人は、平面図のみでなく、幾方向かの断面図(エレヴェーション図)をつくるよう心掛けたいものだ。


築城者になって城趾を見る。築城の基本
城を訪れたなら、築いた者になり切って城を見てみよう。必ず城には攻めやすい所とか方向をつくる。敵をそこに集中させて戯滅させるためだ。

たいがいの城は、裏手である搦手に大きな河川や湖沼、または天険の崖などがあり、自然の厳しさがない場合は、城の裏手に必要以上の幅広の水堀や深い堀を掘る(江戸城の牛ヶ洲、千鳥ヶ淵などが典形的な例)。

裏手の工夫は敵を寄せつけないことにあるのに対し、正面である大手は逆である。城の裏手と左右に比べ正面の堀幅は狭く、橋も、戦闘の時なくしてしまえる木橋でなく、土橋である場合が多い。

名古屋城の場合は、城の背後は一面沼地、最前面の三の丸は沼地に接する背後以外の三方はすべて空堀、二の丸は左右が水堀で正面が空堀、本丸を囲む堀はすべて空堀である。

これは空堀にした川だけに戦闘を集中させるためだ。また空堀に接する石垣は激しく塁壁面が屈折する。この屈折は「横矢掛り」といって側面攻撃を可能とする出張りだ。

大坂城もまた本丸の南半分のみが空堀で、本丸の北半分と二の丸、山の丸全域はすべて水堀だ。大手、玉造口、京橋口が土橋づくりで、二の丸地区の土橋と本丸南側に戦闘を集中させる工夫である。

どうして大手方面である正面に敵を集中させるのだろうか。城は正面方向から見るといちばん壮麗に映じるようにつくられている。

城の区画や塁壁ラインを決める縄張の時、正面がどの方向かあらかじめ考えて、見映えのよい曲輪や建物を配置する。すなわち正面は見た目がある程度優先されるのだ。

となれば、天険や厳重な防備のある攻めにくい搦手の裏より、空堀や土橋という容易に戦闘に入れる正面を攻めたほうが城攻めは確かだ。守り手は、城を包囲する攻め下(敵)を裏より川で正面に追い込み、搦めとる、すなわち裏より出て追手(大下)に攻め手を集中させ、搦めとる(搦千)のが、築城の基本なのである。



堀の掘り方を見よう
最近大変話題になっている堀の掘り方に畝堀と堀障子がある従来一般的に考えられていた畝堀とは、幅広い空堀を守備する折、戦闘距離をつくるため、堀の中央に畝をつくり、一旦敵を畝上にのぼらせ、守り手が弓、鉄炮などで叩くというものだった。この場合、堀の中央の畝は堀に平行して(堀に沿う横方向に)築かれる。

ところが、山中城発掘調査とこれに伴う繋仙事業に際し、堀を縦に区切る畝が連続して、しかも城全体の空堀底から出土した。

その後、小田原城、韮山城、騎西城、滝の城など戦国大名北条氏領国内の城郭から続々と畝堀が出土、中には縦ラインと横ラインが組み合わさり障子の桟のようになる堀障子も見つかった。

こうして北条氏特有の恥底の形態とみられるようになった畝堀・堀障子が、蝦近、北九州の小倉城外堀や山形県米沢城外堀、大坂城大手口、岐阜県の加納城大手口など、豊臣氏時代の大手口空堀の底からも見つかった。

蟻地獄のようにV字形に連続する畝堀・堀障子は、北条氏の築城における特徴ではなくなったのである。畝堀・堀障子には、既成の空堀や水堀の底に改めて畝を築いたものと、初めから畝をもつ堀を意図してつくったので畝が非常に高いものとがある。
今後のさらなる調査成果が待たれる。

堀の中には、用途が判らない堀もある。全国各地から見つかっている竪堀、畝状竪堀と呼ばれる堀だ。丘陵の城郭などには堀切と呼ぶ舌状台地を掘り切る空堀が一般的に用いられるが、堀切の延長である丘の斜面は、竪堀といって斜剛を掘り切る。

この竪堀が連続して、トタン板や筋兜の髪のように城の斜面をびっしりと取り囲むのである。おそらく緩斜而を急崖のような斜面とするための、またよじ登れないようにするための連続する竪堀だろうが、はっきりとした用途が判っていないのである。


武器と築城
安土城、姫路城、津山城などを訪れると、城の周囲である丘の麓には水堀がめぐるが、城中に入ると堀切も空堀もない。「城の中には堀はつくらない」という画期的な築城を行ったのは、織田信長の安土城が最初である。

城中の区分に堀を用いると、堀幅分だけ城の面積が狭くなってしまう。堀幅とは戦闘距離だ。

安土城や戦国時代の城(安上桃山期までの城)の石垣の高さは3~5メートル以内で、それ以上高い石垣には中段にテラスである犬走を設ける。

3~5メートルという石垣の高さは、長柄鑓で確実に敵を突ける距離で、高い塁壁では犬走で敵を射ればよい。石垣の高さと犬走の存在は、石垣が急斜面を呈することで堀が必要なくなったことを意味する。

堀は土塁と共に、石垣が現われるまで、すなわち、畿内地方に限っては安土城出現の頃まで、最も有効な防備ラインであり、戦闘距離を確保していた。戦国時代の東国、畿内、西国いずれの地方の城郭でも、堀幅の平均は10~12メートルで、12メートル以内なのである。

この隔は、長柄鑓の戦闘を意識したものである。天文中頃から永禄初年頃に、大身鑓から長柄鑓が生まれた。すなわち大きく長い鑓穂(大身鑓)から、小さく、刺したものからすぐに抜ける鑓穂が発明され、その小さな鑓穂を軽い長柄の先につけた二間半(約5メートル)から三間(約6メートル)の長衲鑓が登場した。

すなわち珈咄とは、堀を挟んだ攻め手と守り手が、長柄鑓で腕の長さも計算に入れて戦闘することができる幅なのである。

10~12メートルより狭い、3~5メートルの堀幅の中世の城郭の堀は、長柄鑓出現前の堀陥なのである。鉄砲が普及して堀帆に変化がもたらされるのは、関ヶ原合戦直前の文禄から慶長初年のことだ。



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