賎ヶ岳で有名な「7本槍」本当は9人いた

賎ヶ岳7本槍の裏事情

9人いたのに「7本槍」
まずは、「賎ヶ岳7本槍」に関する、ちょっとしたトリビアを。 そもそも、この有名な「賎ヶ岳の七本槍」というのは、天正11年の賎ヶ岳の戦いのなかでも、特に激戦がおこなわれた4月21日の賎ヶ岳付近の戦闘で「一番権」の戦功を賞された7人の勇者のことを指している。

ところが、実際には、この戦闘で「一番槍」の戦功を讃えられて、のちに感状をもらった者が「9人いた」、という話をご存じだろうか。 このことは、この戦いからわずか7ヵ月後に書かれた『柴田合戦記』に書かれていることだから事実なのである。というのも、この書物は、秀吉が自己宣伝のために御伽衆の大村由己に書かせた、いわば秀吉サイドの公式発表だからである。 つまり、本当なら「9本槍」と呼ぶべきところなのに、いつの間にか「7本槍」として定着してしまったのだ。

ところで、このとき(いずれも6月5日付となっている)感状をもらった9人というのは、以下のとおりである。
福島正則(5000石)
加藤清正(3000石)
加藤嘉明(3000石)
片桐且元(3000石)
脇坂安治(3000石)
平野長泰(3000石)
糟屋武則(3000石)
桜井家一(3000石)
石河一宗(1000石)

名前の下の( )内は、感状に記されていた恩賞の石高で、特に大きな手柄を立てたとされる福島正則だけ5000石となっているほかは、 一律3000石が与えられている。石河一宗だけ1000石なのは、実際に手柄を立てたのは兄の一光だったのに、この合戦で一光が戦死したため、家督を継いだ一宗が代わりにこの恩賞をもらったという事情があったからだ。 しかし、このように感状に記された石高に多少の違いがあるだけで、文面はほぼ全員いっしょであった。

つまり、この感状が出された当初は、この9人は対等に戦功を賞されていた、ということである。 どうして「7本」になったのかところが、賎ヶ岳の戦いから、40年を経て著された『太閣記』では、早くも「7本槍」になってしまっている。 これは、さきほどの9人から桜井家一と石河一光を除き、7人としているのである。

また同じころに成立したと思われる『川角太閤記』は、福島正則を別格として7本槍の上におき、代わりに桜井家一を7人のなかに入れている。 ちなみに、その後に著された『新撰豊臣実録』『村井重頼党書』『長家聞書』なども、この『川角太閣記』方式をとっている。 ただ、小瀬甫庵の『太閤記』が、江戸時代のベストセラー小説だったせいか、もっともなじまれている「7本槍」は、福島正則を筆頭におく『太閤記』方式の7人だといっていいだろう。

それにしても、どうして9人いたものを7人にする必要があったかといえば、「9よりも7のほうが数として据わりがいいから」という単純な理由くらいしか思いつかない。戦国史研究の権威、高柳光壽氏は、「この前にも小豆坂7本槍などというものがあるので、それにあやかって自然にこのような名ができたものと思う」と「賎ヶ岳7本槍」というネーミング誕生の由来を推測しているが、おそらくそんなところだったのではないだろうか。

また、なぜ、桜井家一と石河一光のふたりが、この7人に数えられる栄誉から除外されてしまったのかという件については、同じく戦国史研究の権威の桑田忠親氏が、「早死にした者の損」だといっている。その説に、歴史研究者の谷口克広は、その後、ふたりの家が断絶したという事実も付け加えて、さらに補強をしている。 というのは、桜井家一が死んだのは慶長元年(1596年)ごろだといわれている。家一には後継ぎがいなかったようで、桜井家はそのまま断絶してしまったらしい。

いっぽう、石河一光の死後、石河家を継いだ弟の一宗は、その後1万3000石の大名になった。しかし、関ヶ原の戦いのときに西軍に属したことが、その運命を分けたといっていい。敗戦後、 一宗は切腹。石河家も断絶してしまったのである。

それにしても、もとはといえば「7」という数字にこだわりたかったという、後世の記述者たちの都合で、長く勇者として語り継がれる資格を剥脱されたふたりは気の毒というほかない。しかし、こうして「7本槍」という覚えやすいコピーを得たおかげで、この逸話は、より民衆にも愛され、有名になったのだともいえるだろう。



この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!


ナビ
Page Top