秀吉の城下町の都市計画は長浜を参考に天下の台所大阪で完成

日本初の町割り

大坂の都市建設の当初からつくられた平野町の1886年の実測図を見ると、谷町筋と上本町の間に2つの道があり、これらを挟むように、幅約216メートル、奥行約26メートルの細長い屋敷が並んでいたことがわかる。

また、間口約108メートルが一町の単位となっており、道に対して南北に12町分並んでいたことがわかる。 この地割りこそ、大坂の町割り全体のルーツと考えられ、また、さらに近世の町割り全体の、いわば発祥とでもいうべきものなのである。

次に城下町全体に視野を拡げてみると、上町を中心として、大川を挟み一丁目から八丁目までの町をつくり、八丁目は寺町として、南から攻められた際に信仰心を利用して力を弱める働きがあったと思われる。

また、寺町に挟まれた南北2つの町を南の四天王寺まで伸ばし、その東西も寺町で囲い、四天王寺の門前町と城下町を連結したのである。さらに四天王寺からは、住吉、堺への街道脇に、民家を並べて連結させ、堺の港から、物資が町に流れ込むように計画している。

その後、大坂が「天下の台所」と呼ばれる一大商業都市へと変貌をとげたのは、これらの秀吉の都市計画の先見性にあったといってよい。


都市計画の発芽
長浜の城下町は、京都の町割りと同じく碁盤の目状になっており、東西7丁、南北10丁であり、城下町としては大規模なものであるといえよう。町名だけでも50はあったという。

この長浜の町割りの最大の特徴は、完全な十字路で全体が構成されていることだろう。

通常、戦国時代の城下町は、T字型等の不規則で複雑な町割りにして、敵に攻めにくくつくるのが常套手段であるが、長浜においては、機能的で、そしてなによりも先まで見通せる都市景観を重視して、単純な格子状の町割りを採用しているのである。

また、秀吉は、もと居城のあった小谷の城下町のすべての職人、商人に対して長浜へ移転することを強制している。

さらに、それでは足りなかったのか、周囲の川道、平方、箕浦の商人らにも長浜へ移ることを命じており、長浜城下町は、こうして人工的につくり出されたことがわかるのだ。それは、現在の町名にもあらわれており、小谷城下から移転した人々は郡上町、伊部町、呉服町などとして、また箕浦町というのも、出身地をあらわしているといわれる。

さらに、小谷城下から数多くの寺院を移しており、前述の大通寺の西の天台宗の知善院、あるいは真言宗の妙法寺などが現存している。これらの移転者には、300石の地租免除と、信長考案の楽市楽座の制度の権利を与えたため、多くの者が自らすすんで移転してきたという。

また、秀吉は税を徴収するための「検地」を長浜で既に行なっているのだが、これは天下人になってからの「太閤検地」の前例といえる。

このように見てくると、秀吉の初の居城・長浜城において、すでに後の大坂城等の築城手法や城下町の都市計画の発芽がすでに見られるといえるだろう。


鬼門を守り続ける神社
なお、長浜城は1581年の高松城水攻めの際、本能寺の変で信長を倒した明智光秀に占領されてしまう。秀吉がその後、山崎の戦で信長のあだ討ちとして光秀を破ったのは、同時に長浜城を取り戻す行為であったともいえよう。

しかし同年、次の権力者を決定するための尾張清洲会議で、長浜は一時、柴田勝家のものと決定されたが、再び秀吉の説得によって取り戻す。その後は家臣への褒美として転々とし、数奇な運命をたどることになる。

そして秀吉の死後、1603年の彦根築城のおり、長浜城は解体移建されて廃城になり、城下町だけがあとに残されてしまう。その後、街を守るものがなくなった不安からか、日吉神社と豊国神社が守護として建てられている。

日吉神社は、現在の京都の前身平安京で鬼が出入りするといわれ、忌み嫌われた鬼門(東北の方位)の守護とされた比叡山の守り神・日吉大社から1810年に勧請されたものである。そのため、長浜町のちょうど東北に位置しており、今も鬼門を守り続けているのだ。

また、豊国神社は、秀吉を神として祀ったもので、江戸時代には徳川幕府によって弾圧を受けて取り壊されたが、秀吉の神像は代々町役人の家で受け継がれ、1792年に「えびす宮」の建築許可を受け、奥に神像を安置して密かに祀っていたと由緒書きにはある。

この豊国神社の位置を地図上で確認すると、ちょうど長浜城跡の東北に位置していることがわかり、やはり城跡の鬼門の守護としての役割りをもたされていることがわかる。


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