静岡県・駿府城|家康が今川氏の人質となった第二の故郷

駿府城(静岡県静岡市駿府公園)

駿府城は徳川家康が大御所として隠居した城だが、隠居の身でありながら、対豊臣家・豊臣大名への政策立案をするために築いた大城郭である。残念ながら明治以降、陸軍用地であったため本丸と天守台の石垣は壊され、濠はすべて埋め立てられ、二の丸をめぐる石垣と濠、三の丸の一部の濠が残るだけだ。

その上、残存する二の丸石垣の積石の大半が陸軍時代に積み換えられている。しかし大御所の城だけあって巨大かつみごとな防備を完壁なまでに工夫した跡が各所に残る。その計算された防御工夫の一つは、平成8年に復元された二の丸東門を見学するとよく判る。

東門は桝形虎口で、濠に架かる木橋の方川に出張る形で桝形がある。この出張りで濠帆が少し狭くなり、敵を集中させるのだ。敵は橋を渡らねばならないが、この橋と南東コーナーを睨む形で、巨大な巽櫓が建つ。高麗門(二の門)を抜け一の門である幣門に向かうと、途中の桝形虎口の石塁上は渡櫓門を含め三方が多聞櫓で、格子窓が並ぶ。

格子窓の各格子の間は、火縄銃の銃口をさし出すだけの幅なのである。すなわち、三の丸から二の丸(火門内側は川の丸ともいう)に入る途上には、様々なカラクリがあったのだ。


家康が人質となった第二の故郷
「駿府」の地名は、駿河国(現静岡県)の国府が置かれたことから命名されたものといわれる。駿河という地名は、この地に自生する「ヤマトリカブト」のアイヌ名「スルグラ」からきたともいう。

鎌倉、室町を通して駿府の守護職を務めたのは今川氏であり、近年、駿府城二の丸北西から、当時の今川氏の館跡が出土した。のちに初代将軍となる徳川家康は、6歳から19歳までの多感な時期に、この駿府で今川氏の人質として暮らした。

よって家康にとって駿府は、第二の故郷のような存在であったといってよい。 1568年、武田信玄により今川氏が駿府から追放され、その武田氏も1582年に滅亡すると、駿河国は家康が領することになった。

この時家康46歳、かつて人質だった少年が、錦を飾り領主として入城したのである。駿府の戦略的な利点を熟知していた家康は、駿府城の再建にのり出し、1590年から6年の歳月をかけて本丸、二の丸を完成したという。

しかし完成の翌年の1597年、家康は江戸城へ移り、関ヶ原の合戦までは家臣中村一氏が、その後は内藤信成が城主を務めた。 1603年、家康は江戸幕府を開いて将軍職に就くが、2年後将軍職を秀忠に譲り、1607年、大御所として三たび駿府入りを果たす。

それにあわせて、1605年より駿府城は、隠居所として全面的に再築城を行なう。工事は「天下普請」として池田輝政、毛利輝元などの西国の大名に、助役を命じてすすめられた。1607年7月にはほぼ完成し、家康も入城したが、12月に女房の放火により全焼、女房2名が島流しとなっている。

その後、すぐに再建に着手、翌1608年には完成するものの、途中9度も不審火があり、「くの一」と呼ばれた女忍者の放火説が噂されたという。ちょうどこの頃、家康は豊臣攻めを計画していたといわれ、豊臣方より家康暗殺の忍びが多数送りこまれていたのかもしれない。

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