大阪府・高槻城|交通の要衝で武将たちの争奪戦

高槻城(大阪府高槻市城内町)

史上名高い城址が、戦後の高度経済成長期に、市街化に伴い、あるいは工業団地・学校建設の名のもと徹底的に破壊された例が幾つもある。ここ高槻城も、そうして破壊され消滅した城の一つだ。

昭和40年代まで残っていた堀跡はすっかりなくなり、島上(現・槻の水)高校にあった城吐碑に代わり、今、城址公園がつくられ、高槻が城下町であったことを知らしめるための公園であろうが、なにか虚しいハリボテの石虹と水をはった池(川)なのである。


高槻城は交通の要衝
武将たちの争奪戦 大阪府高槻の地は、ちょうど京都と大坂の中間点に位置する。今日の状況を見ても名神高速道路、東海道本線、阪急線、新幹線が集中している。かつては、西国街道による陸上交通の要衝であり、また淀川を通じて、大坂湾に通じる水上交通の要衝でもあった。

よって高槻の地は古来、武将たちの奪い合いが繰り広げられてきた。正暦年間には近藤忠範が久米路山城を築き、その後入江、和田、高山、羽柴、新庄、青山、内藤、米沢、喜多、彦坂、山田、土岐、松平、岡部、永井の諸氏がめまぐるしく入退城を繰り返してきた。

それらの中でも最も重要な城主は、1585年に父図書から城を受け継いだ高山右近だろう。彼が歴史上残した業績は広く知られ、キリスト教宣教師を通じて海外にも喧伝された。

高槻城はかつて東西700メートル、南北800メートルの城域に本丸、一の丸、二の丸、三の丸などを形成し、本丸には三層の天守があったというが、今はほとんど原形をとどめていない。

現在の島上高校の敷地に本丸や弁財天曲輪、蔵屋敷があったとされ、石碑が立つ。 また市民グラウンドの地に二の丸、城跡公園に三の丸の一部と原曲輪があった。 城跡公園前には、本丸の石垣が一部復元されており、二の丸隅櫓は民家の倉庫、唐門は野見神社の神門、城門は本行寺山門として移建されている。

利休高弟のひとり 高山右近は高槻城主でもあり、また茶人・千利体の七哲と呼ばれる高弟のひとりであった。1552年頃、摂津高山(現豊能郡豊能町) で高槻城主。高山図書の長男として生まれた。

幼名を彦五郎といい、後に友祥、長房と称した。右近の父・高山図書は、キリスト教伝来初期の1563年、すでに宣教師ビエラのすすめで入信、洗礼名をダリョという。

図書は母や妻だけでなく、すべての子供を入信させたため、右近もキリシタンになったのであり、自らすすんで洗礼をうけたわけではなかった。

しかし、図書が領地の高槻城や沢城に教会をつくり、積極的に活動を行なったため、しだいに右近も信仰にめざめたものと思われる。

父の入信の翌年、12歳で入信した右近は洗礼名をジュスト(「義人」の意)といい、また妻も同時に入信したとみられ、マリアという。 1573年、13歳になった右近は、父を継いで高槻城主となり、1587年のバテレン追放令が出されるまで、15年間城主をつとめた。

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