城の役割が平和になると変化した理由が妙に納得できる

城の区分と天守の役割が平和になると変化した様子とは

山城は山や丘の山頂付近を利用して造られた城で、桃山時代以前に造られた中世城郭と呼ばれる城に多く見られる立地です。山に造られたため、堀に水を溜めておくことが困難なので、空堀がほとんどでした。

平山城は、山城よりも低い山や丘陵に築かれた城のことをいいます。しかし、平山城という区分は、標高何m以上何m未満といったような厳密な定義があるわけではありません。

そのため区分する人の主観に左右されることが多く、たとえば大洲城などは現在平山城とすることが多いのですが、江戸時代に幕府に提出した書類上では山城となっています。

平城は平らな場所に造られた城で、桃山時代以降の近世城郭に多くみられます。
基本的には城内に山や丘がない城ということになっていますが、人によって平山城との区分があいまいです。こうした山城・平山城・平城といった区分は考え方次第でまちまちになることが多く一定していません。

おおむね、山城は山や丘の上部だけの城、平山城は山や丘を中心にしてその周囲の平地を城域に取り込んだ城、平城は山や丘が城域にない城という目安があるものの、数字で示すことができるような定義がないので、人によって判断は異なるのです。


まず、城に入るところから始めましょう。ほとんどの城は、敵に簡単に侵入されないように堀で囲まれているので、この堀を渡るために橋が架かっています。橋には木の橋と土の橋があります。

木の橋は戦いのときには敵に利用されないために、すぐにはずせるようにするなどの工夫が施されていました。しかし、残念ながら木の橋の現存例はありません。

橋を渡った先には門がありますが、ここも敵に突破されないように、二重に門を構えるなどしています。城の周りに巡らされた塀は城内から敵を攻撃するための穴(狭間)が開けられ、簡単に敵が乗り越えられないようになっています。

さらに城によっては門の脇に櫓を置いたり、門自体を櫓門にするなどして、門に近づく敵をやっつけるようになっています。また塀ではなく多門櫓という細長い櫓を構えて守りを固めている場合もあります。

また、城に出入りする者を見張り、城内の見回りや管理をする役目の人のための番所が門の近くや要所に造られました。

天守は戦いのときの最強の最終兵器で、城に篭もって戦うための司令塔でした。天守自体にも敵を寄せ付けないようにするための防御設備が備えられ、より守りを固めるために、天守に櫓や小天守を付属させたり、中には天守を取り囲むようにした形式も生まれました。

さて、城は戦いのときの最大の軍事拠点ではありましたが、戦いのない平和な時代がやってくると、大名たちの領国支配の中心的な役目を果たす場所となりました。

天守は、平和な時代になると、城のシンボルとして重要視されるようになりました。象徴にふさわしくより美しく見せるために、破風や、懸魚、華頭窓といった飾りが取りつけられていきます。

壁も安価な黒漆の下見板張ではなく、黒漆塗や塗籠という、金も手間もかかる仕様で造られ、大名や天下人たちの権力を見せつける道具ともなりました。

しかし、豊臣家滅亡後は、大名の力を恐れた徳川幕府が、四重・五重の巨大な天守を造ることや、新しい天守を造ることを原則的に禁止しました。
そのため、三重櫓を造って、天守の代用とする城もありました。

また、大名の領国支配のための施設が御殿です。
大名と家臣との対面をはじめ多くの儀式・行事や政務がここで行われました。また、御殿は大名の私的生活の場ともなりました。つまり、現在の県庁と県知事公邸とを兼ねたような施設だったのです。

そのために城内には広大な敷地が必要でした。さらに米などの生活用品を納めておくための米蔵、有事の際の火薬を納める煙硝蔵(焔硝蔵)といった蔵もありました。馬で城にやってくる人のために馬をつなぐ馬屋も設けられました。このように城内にはところ狭しと数多くの建物が並んでいたのです。


殿舎
元来、「殿」は広大なものを指し、「舎」は比較的小さいもののことを指します。また「殿舎」とは貴人の邸宅のことであり、大邸宅の尊称です。ここでは城でのことですから、殿様の住む場所、すなわち私宅のことになります。「御殿」「館」などと呼ぶこともあります。殿舎は御殿舎の略語といえましょう。

わが国では、古くは古墳時代ごろから庶民の住居とは異なった支配階級の住居ができあがったと考えられています。

具体的に貴人の大邸宅が明らかになるのは、平安時代に入ってからです。「御殿」は、平安京内内裏殿舎の一つで、儀式用の紫哀殿に対する、天皇日常の居所である清涼殿を指します。

「中殿」とも「常の御殿」とも称しました。転じて、一般に貴人の住宅の尊称となり、その基本的な住宅様式は、古代の寝殿造、中世の主殿造、近世では書院造に代表されています。

寝殿造は、主として京都における公家の住宅に見られ、主殿造は寝殿造を基盤に中世の武家の住宅に成立し、寺院の私僧坊などにも用いられました。

近世のはじめ、武士階級の御殿は、城郭内の本丸にありました。織田信長は安土城で天守内に造りましたが、しだいに天守から二の丸、三の丸へ移されるようになります。その方が十分な広さをとることができたからです。殿舎の代表的なものとして、二条城二の丸御殿があります。また関東では、川越城に殿舎が残されています。


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