秀吉は太刀も刀も使わない天下人の戦いに執着していた

太刀も刀もいらぎる体に候

豊臣秀吉が、小田原の北条家を攻めるため京を発したのは、3月1日のことであった。3月3日には早くも伊豆と駿河の国境付近で、徳川家康ら別働隊と北条方との間で戦闘がはじまっているが、このように北条家の領内に入った別働隊がほうぼうで戦闘を開始しているなか、秀吉の本隊は実にゆったりとした足どりで東海道を下っていった。そうして、およそ1カ月もかけて、3月27日、ようやく秀吉は伊豆の前線に到着する。

しかし、到着するや、さっそく翌々日には、行く手に立ちはだかる北条方の山中城と韮山城の攻撃を命じて、山中城をその日のうちに落城させたのである。 ところで、この両城への攻撃については、歴史学者の山室恭子氏が興味深い指摘をしている。

史料によると、山中城を攻めたのは羽柴秀次率いる3万7800人。韮山城を攻めたのは織田信雄以下の4万4100人であった。両城は城の規模や立地に大きな違いがあるわけでもなく、城兵の数もともに数千人程度で大差はなかった。 にもかかわらず、山中城は攻撃を受けた3月29日、即日落城して、かたや韮山城のほうは、それから3カ月近くも持ちこたえて、6月24日、ようやく開城したのである。 なぜ、このようなはなはだしい違いが生じたのか。

「それは、寄せ手の秀吉側が、韮山攻めをさして本気で行なわなかったからであろう」 そして逆に「山中城のほうは、諸方の見せしめのために屍の山を築いてでも一息に」落城させたというのだ。 実をいうと、天正13年(1585年)の3月から4月にかけての紀州攻め以来、秀吉がおこなった国内の平定戦は、同じ戦争とはいっても、戦国の世のそれとは明らかに異質のものだったといってもいいのである。

例えば、いまいった紀州攻めのとき、秀吉は最後に残った敵の拠点である太田城を攻めるにあたって、例の「水攻め」という大がかりな戦術を選んでいる。そして、その結果、相手方は早々に降伏するのだが、このとき秀吉は、城内に送った書状のなかでこのようなことをいっている。 「のちのちの見せしめのため、太刀や刀も使わずに(籠城していた)男女一人も残らず、翼のある鳥にいたるまで溺死させてやろうと思ったが」哀れなので一揆の首謀者だけの首を斬って、そのほかの者は許してやることにしたぞ、というのである。

しかし、このなかで注目していただきたいのは、「太刀や刀も使わずに」というフレーズだ。同じ年の8月8日、秀吉は、今度は越中で反抗を続けていた佐々成政を討つために、北陸へ兵を向けた。この北陸への出兵はずいぶん前から計画されていたらしく、2ヵ月以上も前に、越中への通り道となる越前敦賀の領主、蜂屋頼隆に道と橋の整備を命じている。そうして7月の中ごろには、この平定戦に参加させる諸大名に対して出陣命令が出され、予定どおりに秀吉は8月8日、派手な軍装に身を包んだ大軍を引き連れ、見物人の目を喜ばせながら京都を発った。

この軍勢を見送った公家衆のひとり、吉田兼見はその日記に、「古今に例がないほどの綺麗さである」と綴っているが、このころの秀吉の出陣はいつもこうである。 ところで、この北陸遠征、実はまったく軍勢を動かす必要はなかった、という話がある。というのも、この出陣の前に、征伐される側の佐々成政が、織田信雄を通じて「国を明け渡すからどうか攻めないで欲しい」と必死に頼んでいたらしい様子が当時の書状から読み取れるからなのだ。

ところが秀吉は、相手がほとんど降伏していることを知りながらも、それを無視して、あえて10万といわれる大軍勢を率いて、わざわざ越中までいって成政の富山城を包囲するのである。もちろん成政には最初から戦う気などなかつたのだから、彼は一戦も交えずに降伏した。この戦いの後、秀吉はいつものことながら、ほうぼうに書状を書き、この勝利を大いに宣伝しているのだが、その文面には自慢げに、こうあるのである。 「太刀も刀もいらざる体であった」。

2年後の天正15年(1587年)の3月1日。再び、赤地錦の直垂に緋絨の鎧という派手ないでたちに、鍬形をうった冑をやや後ろに傾けてつけた秀吉が、見物人の目を楽しませながら京を発った。したがうのは佐々成政、浅野長政など八万の大軍。今度は九州の平定戦である。このときも、山陽路をゆるゆると下ってゆき、3月28日にようやく九州の小倉に渡った。しかし、本来なら、ここから豊後にいた島津勢を攻める予定だったが、かんじんの相手が10日ほど前に退却してしまったため、秀吉は急速予定を変更して筑前に入り、島津家に従属していた秋月種実を攻めることにするのである。

4月1日、秀吉軍は巌石城を攻撃。この城をその日のうちに落城させた。わずか数百人が籠る城を3万あまりの軍勢が総がかりで攻めたのだという。2年後の小田原征伐のときにみせる、あの山中城を一日で落とした戦いぶりをほうふつとさせる城攻めである。

なぜ、この小さな砦が攻略の対象として選ばれたのか。軍事的に考えれば、秋月の本城さえ落とせば、こんな砦は放っておいても差し支えないはずだ。通行の邪魔だからという理由が付けられているが、別に交通の要衝を掘していたわけでもない。とすると、秀吉自身がこの地を見回って、「ことのほか高山にて」「筑後・肥後・筑前・肥前へ相見ゆる所」だから攻略した、と彼の家臣が報じているように(『古文書類纂』)、諸国への見せしめのために不運にも選ばれたのであろう。九州の地を踏んだとたんに華々しく城を一つ屠ってみせれば、洞ヶ峠を決め込んで態度を鮮明にしていない諸侯に大きな動揺を与えることができる、というわけだ。案外、巌と石の城なんて名前もいいぞ、ということだったのかもしれない。

その効果はてきめんで、翌日には秋月種実父子が早速に降伏を申し入れてきた。 (山室恭子著『黄金太閤』中央公論社刊) その後、九州各地の豪族たちは続々と秀吉に面会を申し入れてきて、恭順の意を示してきた。これも、結果をみれば、ほとんど「太刀も刀もいらざる戦」ということができるだろう。

こうしてみてくると、次のようなことがいえるのではないだろうか。秀吉は、このような国内の平定戦を、「天下人」としての自分の姿を日本じゅうにアピールするという目的のためにおこなっていたのである。そのために彼は、戦国の世の常識では考えられない新しい戦のスタイルにこだわっていた。

それが、すなわち、水攻めに代表される、「太刀も刀もいらざる戦」といい換えるなら、「天下人の戦」だったのである。そして、その集大成といえるのが、彼の国内平定戦の最後となった、この小田原征伐だったのだ。つまり、これが、秀吉が「忍城の水攻め」にこだわっていた理由であった。 だけど、結果として「忍城の水攻め」は、失敗したではないか。これでは秀吉の面目が立たないだろう。

そうお思いの人もいるかもしれない。ところが、心配はご無用。こういうこともあろうかと、彼はちゃんともうひとつ、「太刀も刀もいらざる戦」を世に見せつける、壮大な仕掛けを用意していたのである。 6月26日、小田原城の惣構の西方2キロメートルの山の上にいた秀吉軍の火縄銃が、いっせいに火を吹いた。が、別に攻撃をしかけたわけではない。「これを見よ」というのである。

そうして、北条方の将士がその山上を小田原城から望見すると、頂上部の樹木が次々と切り倒されてゆくではないか。 と次の瞬間、とつぜん、石垣白亜、当時最先端の西国風の城郭が山頂に現われたのだ。 この城が世にも名高い「石垣山一夜城」である。

これを秀吉は、わずか80日間の突貫工事で築かせて、彼らしい一斉射撃という派手なセレモニーで小田原城の将士の注意をひき、見せつけたのである。 『北条記』は、「小田原勢は肝をつぶして、この関白(秀吉)は、天狗か神か」と、 一夜にして立派な城が現われたことに驚愕した、と記している。

こうして、天下人秀吉の知恵と、余裕と、財力の前に、北条勢は息を飲んで屈服した、というのが従来の説なのである。 でも、実は、この城が完成する前に、北条家の当主、氏直は小田原城の開城を決めていたかもなどという突っ込みを入れるのは、もうやめることにしよう。ともかく、この「石垣山一夜城」の築城によって、秀吉の狙いであった「天下人の戦い」を東国武士たちに見せつけることができた。



この記事を見た人は、一緒にこんな記事も読んでいます!


ナビ
Page Top