城にある天守っていったいどんな役割があるんだろう

天守は重と階による高層建築でたくさん破風が装飾されていた

天守とは
天守は「殿主」または「殿守」、すなわち城主の住居を意味するものと思われます。
当初は軍事的役割を持っていましたが、近世になって権力誇示の象徴となりました。

わが国で最大の天守といえば、やはり将軍の住む江戸城の天守でした。しかし現在はありません。現在往時のまま木造天守が残されているのは、全国で12の城にすぎないのです。


天守の起源
天守は、いつ誕生したのでしょうか。鎌倉時代の『源平盛衰記』や南北朝時代の『太平記』には、合戦の時に使用した「井楼」や「高楼」の物見の建物が出てきますが、まだ「天守」の言葉は見当たりません。

「天守」の文字の初見は、室町時代『細川両家記』の永正18年(1521)の記事になります。

それによりますと、摂津の伊丹城が攻められた時、2人の武将が「城戸を閉ざして火を掛け、天守にて切腹」したとあります。

本格的な天守は、室町時代末の永禄年間(1558~69)に松永久秀が築いた大和の多聞城の4階建ての建物といえましょう。その後、織田信長が天正4年(1576)近江の安土城に、5層7階の天守を築きました。以後、これが天守建築の手本となります。


天守の名称
「天守」は当初、「殿守」と書かれていました。『遺老物語』によりますと、室町時代後期の永禄元年(1558)に、尾張の楽田城が攻められた時、殿守というものがあったので、敵の攻撃を防ぐことができた。

その殿守は土石を二間あまりの高さに盛って壇を造り、その上に櫓を建てて、8畳敷きの2階座敷を設けて、そこに八幡大菩薩と愛宕権現の両神を祭ったものである。

この噂を聞いたほかの城主たちも、図面を引かせて同じような建物を造るようになった…とあります。また、殿守はものにより、「殿主」とも書かれています。

さらに、後に「天主」という言葉も登場してきますが、これは梵語(サンスクリット)から出たもので、『秘密儀軌』に記載されていて、仏法を護持する帝釈天のことだといいます。

関連して明治の歴史学者田中義成は、天主はキリスト教の神の訳語と説いています。

天守の構造
「天守」は、城の中心部に建てられた一番高い櫓で、城の象徴となります。もっとも重要な建物なのです。その構造から、「独立式天守」「連結複合式天守」「連立式天守」などに分けられます。

独立して建てられたのが独立式天守で、宇和島城天守や丸岡城天守などの例があります。天守に接続して小天守やほかの付属建物からなるのが連結複合式天守で、松本城がその一例です。

大天守と小天守が離れて建ってはいますが、両者間を渡櫓でつないだものを連立式天守といい、姫路城や伊予松山城などの例があります。


天守は単独で建てられることもありましたが、天守本体から離れているものなどが付属するものもありました。天守の構成は、その接続の形から独立式、複合式、連結式、連立式の4つがあります。

独立式は櫓などを伴わず単独で建つもっとも単純な形式の天守で、丸岡城・宇和島城の天守などが現存しています。

天守に付櫓を直接接続させる形式が複合式です。この場合付櫓を天守の入口とする天守が多く、彦根城・松江城天守などがあります。

廊下のような渡櫓で、天守や櫓をつないだ形式が連結式です。松本城天守などに見られます。

さらに、複雑な形式になるのが連立式で、天守と二基以上の小天守や櫓を渡櫓で環状につなげたもので、もっとも厳重で複雑な様式です。内側に中庭ができるのが特徴で、代表的な天守に姫路城と松山城があります。

これらの天守の構成形式は、実は単純な独立式から発達したのではありませんでした。初期の天守では、入口となる地階を持たない場合が多く、天守の入口となる櫓や、防備のための櫓を付ける必要があったため、複合式が主流でした。

その後、防備強化が強く意識されたため、天守も連結式、連立式へと構成が複雑化していきます。やがて戦国時代が終わり、江戸時代に入って天下太平になると、軍事的な防備の意識よりも、火災の延焼から天守を守ることに主眼が置かれるようになり、ほかの建物と接続しない独立式の天守が主流となりました。


重と階
天守は多くの屋根が積み上げられた高層建築です。屋根の数を重といいます。層という人もいますが、「層」は階数を表すときにも使われることがあるため、建築の世界では「重」を使います。内部の階数は「階」で示します。

大きな入母屋造りの建物の上に、物見(望楼)を載せた、望楼型の天守では、内部に屋根裏階を持つことがあるため、重と階は一致しないことも多いのです。初期の望楼型天守では一致しないことが多く、後期に建てられた望楼型天守は一致しているとされていますが、そうともいいきれません。

たとえば、広島城の天守は初期のものですが、5重5階で一致し、それより年代があとの姫路城の天守は5重6階と一致していないのです。一方1階から最上階を順番に積み上げていく層塔型天守では一重目を特に高く建てて、内部を2階建てとすることが少なくありませんでした。

たとえば小田原城の天守がその好例で、3重4階になっています。さらに極端になったのが水戸城の天守で、一重部分の内部が3階建てになっているため、外観は3重、内部は5階建てです。5重天守を建てることを徳川幕府に遠盧して外観は3重もしくは4重とした例ともいえるでしょう。


狭間
狭間の形には、長方形、正方形、三角形、円形があり、位置にも高い低いがありました。長方形やざまの狭間は矢狭間といい、弓を引く動作に合わせた形で、穴の大きさは外側で横五寸、通常床から二尺五寸上に造られました。

長方形以外の形は鉄砲狭間と呼ばれる、鉄砲を撃つための穴で、正方形や三角形、円形などがありました。正方形を箱狭間、円形を丸狭間とも呼びます。鉄砲は片膝をついて構えるため、高さは普通下から一尺5寸くらいの場所に造られ、居狭間とも呼ばれます。

狭間は土壁に穴を開けて造りますが、土壁の一部を切って造られていました。壁の厚い近世城郭では土壁を塗る前に枠を組みますが、四角形や三角形の狭間では、木で底なしの箱を造って枠としました。

内側の口を広く、外側を狭く造る「アガキ」という方法で、敵の攻撃を防ぎ、防戦しやすくしました。狭間は各柱間に一か所ずつ切られことが多く、矢狭間と鉄砲狭間が交互に造られました。

狭間は並んでいるだけで敵が警戒して近づかなくなりましたが、さらに不意打ちのために造られたのが隠狭間です。狭間の入口を薄い土壁で簡単に塞ぎ、敵が近づいたら内側から突き破って攻撃するという仕掛けです。

石落とし
石落は天守に接近した敵に対抗するためのもので、壁面の一部を外側に張り出し、張り出した部分の床面を開いたものです。

石落という名称なので、隙間から石を落として敵を撃退すると思われがちですが、実際にはその隙間は通常20mほどしかなく、槍を通すことはできても、大きな石は落とせません。

石落は実は、鉄砲を下に向けて撃つための一種の狭間で、鉄砲の銃身が入り、敵から侵入されない程度の幅に造られました。また、鉄砲は左右数十mを射程距離にできるので、石落は数間ごとに造れば十分でした。


破風
すべての天守の最上階と望楼型天守の一重目や二重目には、入母屋破風が設けられますが、それ以外にも多くの破風が、装飾のために取り付けられました。

天守に使用される破風の種類には、入母屋破風のほかに、千鳥破風、切妻破風、唐破風と全部で4種類あります。

千鳥破風は三角形の破風で、もっとも一般的です。形は入母屋破風に似ていますが、入母屋破風が平側の屋根と一体化しているのに対し、千鳥破風は屋根に置くだけの破風です。

どこにでも造ることができるため、多用されました。切妻破風は、千鳥破風と同じく三角形をしていますが、屋根の端が本体の軒先まで突き抜けていて、妻壁という三角形の壁が天守本体の壁と続いています。

もっとも装飾性の高い破風が唐破風です。軒先のみを丸く持ち上げただけの軒唐破風と、屋根全体を丸く造った向唐破風(据唐破風)とがあります。

これらの破風は、天守の外見が単調にならないように巧みに配置されています。特に千鳥破風や入母屋破風を2つ並べる意匠が多く使われ、千鳥破風を並べたものを比翼千鳥破風、入母屋破風を並べたものを比翼入母屋破風と呼びます。

唐破風は装飾性が高いので、最上階の屋根に置かれることが多いのですが、下の方の重でも巨大な破風があるとき、その頂きが上重の軒と重ならないように、軒唐破風とすることもありました。

階段
天守の階段は勾配が急で、上がりづらくできています。
敵の侵入を防ぐためにわざとそうしているとい浸り説もありますが、それでも当時の階段としては普通のことでした。

そのかわり、各階の階段の位置はなるべく近づけてあり、上りやすくする工夫も見られます。

姫路城天守を例にとると、地上6階、地下1階の天守には多くの階段が設けられていて、特に3階と5階は急勾配になっています。

階段の横幅は、下の方の階では一間(約2m)近いのですが、上の方の階では半間ほどに縮まっています。床を支える梁の間隔が一間で、階段は梁の間を通るため、幅は一間までに限られます。

階段の上がり口には正式には板戸をつけます。板戸を倒して入口をふさぐ形式になっていることが多く、板戸を倒さずに水平に引き出すものもあります。

天守の階段は桐材で造られたといわれています。桐の木は燃えにくいので火災のときに脱出するのに役立つのと、軽いので敵の侵入を防ぐために取り外すことも容易にできるからです。

しかし、これらの理由はどうやら伝承のようです。階段に桐材が使われたのは、当時下駄に使われていたように、硬くて擦り減りにくく、さらに軽くて取り付けやすかったからだと思われます。


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