北海道・東北の城 一覧表|日本全国お城情報

北海道・東北 城リスト

松前城(北海道松前郡松前町松城)
松前城は、地元では福山舘・福山城と呼ぶ。慶長五年、松前氏の名乗り(苗字)を徳川家康より認められた蛎崎慶広が大舘にかわり、福山の丘に新たな舘を築いた。

この慶広は徳川大名に列したが、蝦夷地は所領石高表示ができず、無城大名で、城郭を構えることを禁じられていた。したがって福山舘は陣屋構で、本格的な堀、石垣はなく、櫓・二階門(二重門)・天守の建築はつくられなかった。

この福山舘が城郭として改築されるのは、嘉永2年、松前崇広が群命でロシアの南下に備え城主大名に格上げされたことによる。念願の城を持てることになった崇広は、海防を主眼とする幕府の築城許可に応えるべく、城の海側に帯曲輪を設け塁上に7基の砲座を屋根付きで置き、城の左右には16基の台場を築いた。

さらに石垣を一二三段状に築いて、大手を南側津軽海峡に開き、丘続きの搦手を寺町地区として、一朝事ある折の兵姑地とした。

この繩張は、高崎藩の兵学者市川一学が行い、嘉永3年に起工し、四年後の安政元年(1854)に完成する。まさに和式築城の最後の城郭だった。



弘前城(青森県弘前市下白銀町)
5月の連休には毎年200万人以上の人々が、枝垂桜を愛でるため、弘前城を訪れる。城址公園といえば、弘前城ばかりでなく、ほとんどの城址が桜の名所になっている。

実は「城と桜」が結びついたのは、明治中頃(約110年前辺り)からであった。戊辰戦争、日清・日露戦争での戦没者を慰めるため県別に護国神社が各地に忠魂碑が建てられ、その周囲に国威宣揚のため、武士道に通じる「散るみごとさ」の象徴として桜が盛んに植えられた。護国神社や忠魂碑は当時、廃城後まもない地方都市の中心に位置する城址に建てられた。

やがて唱歌「荒城の月」が人々に愛唱され、城と桜は、昔からあったような風景に納まった。弘前城にも北曲輪に護国神社が鎮座する。軍国主義の産物だった桜であるが、城本来の樹木といえば、弘前城二の丸内にも群生している松か竹なのである。松は建材・明り・食物として用途が広く、防風林も兼ねて、城の塁壁上に好んで植えられた。


盛岡城(岩手県盛岡市内丸)
盛岡城を訪れると、あまりにみごとな石垣に圧倒される。石垣のみごとさは東北の城でも屈指のものだ。この石堀は花崗岩であるが、なんと石切場である石材産地は、城のある不来方丘なのである。今も二の丸の東側には石を切り出した丁場跡がある。

このみごとな石垣は、近江出身の内堀頼式が指導して組みあげたものだという。内堀氏は南部氏に仕える以前に、近江浅井家に仕え、岩倉など湖東地区の石工集団と繋がりがあったと想像される。頓式・宵政父子は前田利家に仕え、金沢城などの石垣を手掛けたのち南部氏に仕えた。

内堀氏が不来方丘に城石垣を築くのは、慶長3年(1598)から寛永11年のこと。その間南部氏は、豊臣・徳川両政権のもとで、助役に狩り出されて肥前名護屋・伏見・江戸築城を経験している。これらの天下普請の諸城への石垣構築助役により、高度な石積み技法を身につけたに違いない。


鶴ヶ丘城(山形県鶴岡市馬場町)
鶴ヶ岡は城の雅称、鶴岡は地名である。戦国時代には大宝寺と呼ばれていた。庄内平野を潤す内川とその支流青龍寺川に挟まれる。最上義光が山形城にあって最盛期の折、庄内平野の海岸酒田に亀があがり、酒田の城を亀ヶ崎城、大宝寺の城を鵺ヶ岡城と称した、と伝える。

最上領の支城から徳川大名の居城となるのは、元和8年、信州松代より酒井忠勝が13万8000石で入部したことによる。忠勝は城の大改築に着手、承応3年までに本丸・二の丸・三の丸を水堀と土塁で堅め、虎口には石垣を構えた城郭とした。

完成された鵺ヶ岡城には櫓と櫓門など計17基が塁上に建ち並んだ。その威容は廃城前の明治初年の古写真によって垣間見られる。今日は、大手虎口の石垣の残片と本丸をめぐる土塁と水堀がわずかに残るが、城址の東南には致道館が、西側には御隠殿の遺構が見られる。


山形城(山形県山形市霞城町)
JR奥羽本線の軌道は、山形駅のすぐ北側で山形城の二の丸堀底に敷かれる。この軌道の上に大手橋が架けられ、東大手門が復元されている。

山形城は、明治に入り陸軍用地として利用し続けられた。軍は本丸の石塁を崩し堀を埋め立てたので、最近の発掘調査で本丸堀が復元される以前は、本丸と二の丸の境目すら判らなかった。

東大手門は石垣で桝形虎口を形づくる。二の丸の他の南大手門、西門、北門、本丸の二つの虎口も、いずれも石垣の桝形虎口である。石垣はこの虎口部分に左右に積まれ、塁壁のほとんどが士塁と幅広い水堀だ。

平城である山形城は幅広い水堀をめぐらせておけば、籠城戦の折、出入口の虎口に敵が集中するから、戦闘を集約する虎口部のみを石垣としたのだ。

さらに平城であるため、城下から城の威容を見せるのがむずかしい。その上、本丸は約140メートル四方と狭いので、天守に相当する御三階櫓は二の丸西側、三の丸武家屋敷街に近い位置にあげられた。


上山城(山形県上山市月岡公園)
上山温泉郷を望む月岡公園に天守がそびえる。この天守は歴史博物館として建造された模擬建物だが、博物館展示としては上山城に大きなスペースを割く。

実在した天守は元和8年(1622)に入城した松平重忠から寛永5年(1628)に入城する土岐頼行の代に造営された三層づくりで、その外容は「正罫保城絵図」に描かれている。

しかしこの天守は、元圭禄5年、土岐頼行が改易になると、幕府により破却された。この廃城時、天守と櫓二基をもつ本丸を中心に梯郭式に築かれていた二の丸・三の丸・外郭なども、破却されてしまった。

再び上山城が出現するのは、土岐氏にかわり入城する金森頼吉の時で、飛騨高山城から3万8000石で入城する。しかし金森氏は在城5年で移封。藤井松平信通が三万石で入城する。松平氏は城持大名であるが、大々的な築城は行わず、天守や櫓などは構えず、瓦も用いず柿葺きの屋根什上げとし、石垣は「六ヵ所、五拾七間」と記録に見えるだけの素朴な城郭とした。その構えは明治まで変わることはなかった。


白河小峰城(福島県白河市郭内)
白河小峰城は、古代中世の白河関にかわり、近世では江戸城の御膝元関八州と奥羽とを分かつ軍略上の関門に当る城郭だった。中世戦国時代には、東の佐竹氏、北の伊達氏、内の蘆名氏と覇を競い、室町中期には他氏を凌ぐ一族勢力を誇った結城白川氏(白川結城氏ともいう)が、白川搦手城(白河小峰城の東側の丘上)にあって、戦国大名へと成長する。

結城白川氏はその後、佐竹氏に組み込まれてしまう。搦手城にかわり小峰城が築かれるのは、寛永4年(1627)のこと。棚倉城にあった丹羽長重に、徳川幕府が戦略の一環として築城させたのだ。

長重は、安土城の総普請奉行で岐阜城及び信長再築大坂城の普請奉行をもつとめた丹羽長秀の嫡流である。丹羽家中には、築城のノウハウをもっている家臣と職人衆たちがいたのだ。幕府は、赤舘へ元和8年(1622)に入封させた長重を寛永2年に棚倉に移し、その2年後にこの臼河小峰城を築かせたわけだ。さらに同20年、長重の子光重は、二本松築城を行い、みごとな石垣をもつ山城を仕上げる。


二本松城(福島県二本松市郭内)
二本松城といえば、毎年秋の菊人形がつくられる舞台として名高い。菊祭り以外の時節に観光客を呼ぼうと考えた行政が、誤った歴史認識を市民に与えてしまった。昭和五十六年度に復興した箕輪門と二重櫓である。

共に史実を全く無視したもので、古絵図に描かれている箕輪門の姿ではない。しかし左右の石垣は、さすがに安土城の総普請奉行をつとめた丹羽長秀の嫡孫光重が築いただけあって、みごとの一言に尽きる。

箕輪門左右の石垣を見たなら、是非とも背後の山城に登ってもらいたい。平成14年(2002)度までに全面発掘及び復元整備を完了した、山城域をぐるりとめぐる天守台石垣と本丸の石垣が見学できる。

この標高345メートルの山城域こそ、足利政権が奥州の鎮守府として畠山氏を配して築いた二本松城のあった所、すなわち中世の二本松城のあった所で、麓の城とは異なるのだ。

今、発掘で出土、復元整備された石垣は、畠山氏時代ののち、会津を領した紺生氏郷・上杉景勝時代に積まれ、丹羽氏時代には詰の城として補強されたものだ。



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