徳川家康は君主として家臣の諌言によく耳を傾けた

徳川家康名言集(常山紀談・武野燭談・東照公御遺訓・武将感状記)

およそ主君を諌める者の志、戦いで先駆けするよりも大いに勝る。
徳川家康(常山紀談)

家康は、合戦で一番槍の軍功を立てた者よりも、主君を諌める者の方が、その功績ははるかに上だと言い切る

「なぜなら、戦いに臨んで一番に進み出るは、もとより身を捨てる覚悟であるが、必ずしも討ち死にするわけではない。また討たれても、後世に名を残し、死後の誉れとなる。また幸いに功名を立てれば、恩賞によって家は富み、子孫は繁栄する。だから先駆けは得があって失のない忠である」

では諌言はどうなのだろうか。諌めはまさにか失あって得のない忠であると家康はいう。「無道で善を憎む主君に対して、進み出て直言をすれば、十に九つは刑罰にあい、妻子をも死なしてしまう結果になる。武功は名誉と利益のためにする。しかし少しでも我が身を思えば、主君の前に出て諌言はできなくなってしまう。だから君たる者が本来、賞すべきは先駆けの功名者より諌臣である」

家康が名君といわれるゆえんの一つに、本多作左衛門重次など家臣の諌言によく耳を傾けたことが挙げられる。家康が天下を取った後の京都二条城でのことである。所司代の板倉勝重が、最近、落書が多いので犯人の捜査をすると報告した。

家康は「放っておけ。それよりどんなことが書いであるか見たい」といって、一読した。そして「落書を禁じるな。どうにもならないものもあるが、予のためになるものもある」といって、取り締まらせなかった。

家康は若い時から諌言を大事にした。浜松時代のこと、側近中の側近である本多正信との間に、次のような逸話が伝わる。

正信も同席した折、家康の前で、ある者が懐から書を取り出して「かねてよりお諌めしたいと思っていたことを文書にしました」といって、これを読んだ。家康は大いに喜んで、うなずきながら聞き、読み終わると「汝の志に感心した。これからも心おきなく告げよ」といって去らせた。

すると居残った正信が「只今の諌言に、用うるに足るものはありません」と述べた。家康はこれに気色ばんで「そうではない、己の過ちは知らぬ間に過ぎるものだ。国を領し、人を治める身には、過ちを告げ知らして諌めてくれる者は少ない。へつらう者が多く、違うと意見する者はおらぬのだ。用いる用いないは別として、彼の忠なる心が嬉しい」といった。後に正信は嬉し涙を流しながら、これを息子正純に伝えたという。


大将柱が腐って傾けば、家はだめに怒る。だから一番に大将の身持ちが大切である。 徳川家康(武野燭談)
徳川家康は天下を家宅にたとえて、主君、またこれを支える家老としてのあるべき形を示した。世間一般に礎から棟まで建て上らせた柱を大将柱といい、その大将柱が腐れば家はだめになるから、大将の身持ちが一番大切だとする。

「次には四隅の家老柱の心持ちが肝要であるから、よく材木を吟味する必要がある。家老柱にする柱の木の性質が悪ければ、長持ちしない。四隅の柱の一本がなくなっても、その家は安泰ではない」と家康。

さらに「天下が平和になるほど、武道を怠ってはいけない。軍法も悪く用いれば、手荒くなって人を害し、人をだまして陥れることにもなる。自分が偉ぶり、人の諌めを聞かなければ、ついには家の崩れる発端となる」と、大将の心得を語る。

こうした平和の世では、公家と武家の垣根があやふやになってしまう。「公家は武家の風俗を学び、武家は公家の真似をするようになる。そうなればもとの家業を失うこととなる。臣下の者がその位をわきまえず、君の座に列する一方、主君がその徳を失って、臣の席にあれば、どうしてその家が安泰でいられよう。これは乱の端緒となる」

その好例として、家康自身が滅ぼした下総佐倉城主・千葉邦胤をあげる。「邦胤は主人で、わずか五、六万石を領したのに対して、家老の原は二十万石ほどの地を領知し、原の家老の高城は、陪臣の身で三、四十万石近い国を押領した。

もしこれを邦胤一人が領知していれば滅亡はしなかったであろう。それが上下が入れ違った故に、千葉はむろんのこと、家老の原も高城も君臣ともに滅びてしまった」とし、これを他山の石とせよと家康は戒めるのである。

家康はまた「武家大将軍の三宝は農工商である」といい、「民の苦しみ流す汗は、皆血の涙である。君子は一飯を食する時、民百姓の難苦を知れ。だから地頭、代官は民を虐げ、富を自分のものとして貧ることは、天が最も憎むところであって、絶対にしてはならない。

職人は家、器物、舟から、橋を架け、武器も作ってくれる。これは工の業であって、その恩恵は莫大である。商人は手に入らない品物を遠くから取り寄せ、またこちらにあるものを彼のところに売って、欲しいものを手に入れてくれる。だから武家大将軍は農工商を慈しむことを忘れてはならない」と教訓した。


人の一生は重荷を負うて遠き道を行くが知し、いそぐベからず。 徳川家康(東照公御遺訓)
徳川家康の名言として知られる。征夷大将軍に補せられた62歳の時に書き残したと言われていたが、事実ではない。明治十一年(1878)頃に旧旗本の池田松之助がまとめ、これを日光東照宮などに奉納したもの。

しかしまとめるにあたり、家康自身の言葉を集めて、「東照公御遺訓」としたようで、言葉の一つひとつは家康のものと思われる。だが家康に仮託した造語も一部含まれている可能性がある。

家康は75年の人生を生きた。三河国岡崎城(愛知県岡崎市)の松平広忠の嫡子に生まれながら、弱小国の悲劇ゆえに、6歳で人質に出され、13年間を他国で過ごした。三河の主となって、隣国の織田信長と同盟を結ぶが、力関係では圧倒的に信長が上で、信長の要求には逆らえず、妻と嫡子を殺さねばならなかった。

やがて来た豊臣秀吉の天下をじっと耐えて、関ヶ原合戦の勝利をつかんだのだ。時すでに59歳であった。信長が上洛を果たし、天下へ躍り出たのが35歳である。秀吉が賎ヶ岳合戦で柴田勝家を破り、織田家の頂点に立って、天下を見据えたのは47歳の時だった。三英雄のなかで、家康は年齢的にも最も遅れをとったが、それだけに盤石な世の中を手に入れた。

「織田が搗き羽柴が捏ねし天下餅いながらにして食うは家康」と歌われる。下の句はまた「ただ楽々と食うは徳川」というものもある。しかし家康は「いながらにして」でも「ただ楽々」と天下餅を食ったのではなく、用意周到な計画と根回しと根気とによって、その願望を現実のものにしたのである。

この点、「啼かぬなら殺してしまえほととぎす」が信長の性格を表し、「啼かぬなら啼かしてみせようほととぎす」が秀吉なのに対して、家康が「啼かぬなら啼くまで待とうほととぎす」という、三句はいいえて妙である。家康の句は冒頭の言葉にも通じるものがあるといえよう。

ところで「東照公御遺訓」は、冒頭の言葉のあとに、次のような文章が続く。 「不自由を常と思えば不足なし。心に望みおこらば困窮したる時を思い出すべし。堪忍は無事長久の基、怒りは敵と思え。勝つことばかり知りて、負くることを知らざれば害その身にいたる。己を責めて人を責めるな。及ばざるは過ぎたるより勝れり」

なお家康は「老子」の影響を受け、「足ることを知りて足る者は常に足る」「あだをば恩を以て報ず」を、座右の銘にしていたという。


予はケチだか麦飯を食べるのではない。いまが戦国の時であって兵役の動かぬ年はない。士卒は心身を休める暇がなく、衣食も不自由がちなのに、予一人が贅沢できよう。しかも身のまわりを倹約して、これを軍用費に回すためである。
徳川家康(武将感状記)

徳川家康が三河にいた30歳前の若い頃のことである。夏になると家康は麦飯を 食べていた。近習がひそかに、椀に白米の御飯を入れて、表面を麦飯で覆って出した。これに「予の心をわからぬ者ぞ」と嘆いて、冒頭のように述べた。

家康はさらに続けて「苦労して米を作る百姓の身を思えば、予だけが美味しいものを食べるわけにはゆかぬ」とも話した。 主君としての家康の基本姿勢がここにある。家康は常に賛沢を戒めた。質素倹約を奨励した。

「名将言行録」に、家康は「平氏を亡す者は平氏なり、鎌倉を亡す者は鎌倉なり奢侈の弊害はこのようなものであるから、戒めなければならない」といったとある。人は権力を持つと度を超えた賛沢をして、その身を滅ぼす基となる。その驕りが平氏を滅ぼし、鎌倉(北条氏)を滅ぼしたのだ。心しなければいけないというのである。

ある日、扇が献上された。なんと飾りが黄金でできていた。家康は見て大いに驚き、顔に不快の色を表して、すぐに見えない場所にしまうように命じ、「重宝の黄金をこのような飾りに用いるはもってのほか」と怒った。

またある者が、蒔絵を施した便器を贈った。これに家康はひどく立腹して、「かくのごときけがらわしい敷器に奇工をつくせば、普通の調度はいかにすればよいのだ」 として、近習にすぐに打ち壊させた。

駿府にいた時のこと、身分違いの美麗な小袖を着ていた近習を見とがめて、「わがそばにいる者がそんな服装をすれば、その風が次第に外に伝わって奢侈の源を開くことになる」と叱って、その者に閉門を申しつけた。

こんな逸話もある。家康が手水を使った。その時、風が吹いてきて、料紙が一枚舞い上がった。その料紙を縁側から落ちそうになりながら、あわてて家康がつかみ取った。その格好がおかしかったので、そばにいた者が思わず笑ってしまった。

すると家康は「何がおかしい」とその者を睨みつけ、「予はこのようにして天下を取ったのだ」といって、奥に入って行った。 その仏頂面に、家康の人間性がよく表れていて面白い。


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