富山県・富山城|佐々成政によって浮城へと改修された

富山城

富山県は越中国に相当する。神通川河川に形成された富山平野は、北陸最大の稲作地帯として、江戸初期、時の政権が注目した地域であった。

この富山平野に在地勢力として覇を唱えたのが神保氏であった。富山城の前身であった安住の舘は、天文年間に神保長職の将水越勝重が初めて築いたと伝える。

天正7年(1579)、織田信長は佐々成政を越中に封じた。成政は、いたち川と神通川に挟まれた安住の舘に注目、ただちに大改修し富山城として築きあげた。佐々成政は尾張の土豪川身の織田家の功臣で、成りあがりの秀吉とは違っていた。

天正13年、成政は同じ尾張土豪出身で北庄にあった柴田勝家と呼応し反秀吉の兵を挙げたが、秀吉は成政が立て籠もる当城を大包囲し陥落させた。慶長2年(1597)、前田利長が入城。

隠居城として金沢城の支城を兼ねた築城を行い、近泄城郭への改修にあたる。さらに婦負郡にあった前田利次が10万石で入城、富山藩を立藩し、城を完成させた。今日残る本丸の石垣と水堀はこの時、築かれた。


不信義な武将
富山城は、初名水越勝重、後に改めて神保長職が最初に築いた。ここは越中平野の中心で、平城だが、神通川の水をひいて濠として、かなりな堅城であった。長職から三伝して神保氏春になる。

当時、越後の守護代長尾為景はなかなかの豪傑で、越中へ侵入し、国の東半分を奪取してしまった。これは天文7年(1538)のことだが、その後4年、同11年(1542)になって、神保氏春らは国内の諸豪を糾合し、今の高岡市の南方四里ほどにあった梅檀野(今砺波市内)にあらかじめおとし穴数十をこしらえ、ここに為景軍をさそい出して戦いをいどみかけた。

越後勢は越中勢がいつわり負けて走るとも知らず、まっしぐらに追撃に移っておとし穴におち入って混乱し、ついに臭雄為景は討死してしまった。為景の子が長尾景虎、後の上杉謙信である。謙信にとって、越中は父の仇である。

しきりに越中に兵を出し、天文11年から24年目の天正4年(1576)神保氏春を富山城から追いおとした。氏春は一先ず西方5、6里の守山城(今の高岡市の北方に守山あり)に移ったが、息つく間もなくここも追いおとされ、京へ上って織田信長に身を寄せた。
その後能登から加賀の東部までを征服した上杉謙信は、天正6年(1578)はじめ、3度目の上洛をすべく、2月15日をもって春日山の本城を出発し、分国である越後。
佐渡・飛騨・越中・能登。加賀・上野・出羽・信濃等の国々に触れ出した。

謙信はその時まで2度も上洛しているが、それは京都の形勢視察のためで中央に旗を立てようとの意図を持ったものではなかった。しかし、こんどは事実上の天下人となっている織田信長と対決して有無の一戦を試みようとの決意であったから、謙信の意気は昂揚しきっていた。

謙信は、軍神昆沙門天の再来といわれていたほどの武将であり、自分自身もその信念をもっていた人だ。当時の日本の武将中、戦争で彼と対抗し得るのは甲斐の武田信玄以外にはいないといわれていたのだから、謙信の攻撃目標にえらばれた織田信長にすれば緊張せざるを得ない。

鬼柴田の名ある柴田勝家を総指揮官とし、これに滝川一益・羽柴秀吉・前田利家・佐々成政・金森長近らをつけて、加賀へ出動させた。ここに上げた人々は皆信長座下の屈指の武将らだ。いかに信長が謙信の出動を重大視したかがわかるのである。

ところが、謙信は出発予定日の一週間前の2月9日、急病を発し、13日には春日山城で死んでしまった。脳溢血であった。

急なことで遺言もなかったし、かねてから家督のこともきめられてなかったので、家督争いがおこった。謙信は姉お綾が従兄の長尾政景に嫁して生んだ子景勝を早くから養子としていたが、さらに小田原の北条氏康の七男をも養子としていた。

これは最初は政略のために養子に迎えたのであったらしいが、関東一の美少年といわれたほどの美貌の少年であり、謙信という人が、生涯女を近づけず男色ばかり愛したという人であったせいであろうと思うが、非常に愛情を持つようになり、自分の初名をあたえて二郎景虎と名のらせるほどとなった。

家督争いはこの二人の間でおこり、戦ささわぎにまで発展したが、長尾一族で謙信に血のつづきのある景勝に味方する家臣らが多かったために、景勝の勝利に帰し、景勝が上杉の当主となった。

運をひろったのは織田信長である。謙信の死によって脅威をまぬがれたばかりでなく、城上杉家の3ヵ月のさわぎの間に越中経略にとりかかり、かねて保護を加えていた神保氏山春に佐々成政をつけて越中に進ませ、越中の神保氏の旧臣らへ働きかけさせる一方、自富分の妻の弟、すなわち斎藤道三の死後引きとって育てていた斎藤新五郎利次をして美濃・飛騨の兵を糾合させて、神通川の峡谷から下って富山に向って進撃させた。

この時、富山城は城代上杉信定が小笠原長隆と共に守っていたが、織田勢の大挙侵入と聞くと、城をすてて退去し、魚津城に移ったので、今泉城を守っていた上杉氏の部将河田豊前と椎名小四郎は懐慨して出撃し、富山城の南方をかためた。

しかし斎藤新五郎の勢い鋭く、直ちに追いくずされ、宮山城は新五郎の手に帰した。新五郎は使いをはせて神保氏春を招き、これを城に迎えた。氏春が謙信に城を追いおとされてから2年目であった。

加賀方面から倶利加羅峠をこえて、城中に入って来た佐々成政。前田利家らはこの国西部の上杉方の諸城をおとしいれ、守山城に入って神保氏春の日付役となった。

上杉景勝は三郎景虎を追いのけ、上杉の当主となると、失地回復をすべく越中に兵を進めたが、織田勢が神保氏春の後ろ楯となっているので深入りすることが出来ない。魚津の南方松倉城に河田豊前をこめて国境の守備にあたらせて、春日山城にかえった。

この時から2年後の天正8年(1580)の夏、神通川が氾濫して富山城下は未曾有の大洪水に見舞われた。従来今の富山市の西郊一里の呉羽山の麓を流れていた神通川が、この時から大体今の位置に移ったというのだから、いかに大洪水であったかがわかる。

佐々成政はこの地勢の変化を利用して、神保にすすめて城の大改修をさせた。すなわち、八田瀬に理をもうけ、新たに睡川を切りひらき、大軍に囲まれた時、この八田瀬の堰と馳川とをしめきって人工洪水をおこし、城下を水没させて城を浮城にするという設計だ。また越後勢の来襲にそなえて、城の東方の濠を深くし、石塁を高くし、櫓も改修した。

翌9年の春―織田信長は、天皇の行幸を仰いで、京都で大馬揃えをおこなった。観兵式だ。この盛儀に列すべく、佐々も神保も上洛したが、その不在に乗じて、松倉城の河田豊前は越後から援軍を呼びよせ、また国内の一向宗門徒を煽動して一揆をおこさせ、佐々の家臣が守備している小出城(滑川市の西南一里)を攻撃させた。

すると、かねてから連絡があったものか、単に呼応したのかわからないが、隣国加賀の国にも一向一揆が蜂起した。しかしこれは留守していた佐久間玄蕃盛政が鎮定してしまった。

こんなさわぎがおこっているとは、佐々も神保も知らない。馬揃えのすんだ後、安土城に行き、越中駒などの土産を信長に献上したりして、のんびりした日を送っていると、本国から急報が到着した。
「さ、しったり!」

二人は仰天して、帰国の途につき、一先ず高岡の南方2里の中田城に入った。
当時景勝が小出城を包囲していたので、成政は急遠兵をかき集め、もみにもんで小出城に急行したが、景勝は早くも退去して、松倉城につぼんだ。
その退陣間際に上杉勢は城下に火をかけたので、成政が城近くの常願寺川までかけつけた時には、城下の町々村々は炎につつまれていたという。

富山城(富山県富山市本丸)
別名 安住城 浮城 
所在地 富山市 
種類 平城 
築城者 神保長職(天文年間) 佐々成政(天正年間)
築城年 天文元年(1532) 天正7年(1579)
歴代城主 神保氏 佐々氏 前田氏 
石高 前田氏10万石 
遺構 復興天守閣・櫓



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