櫓は天守代用などの役割と二重三重と種類がたくさんあり面白い

天守代用の三重櫓や櫓の基本形である二重櫓について

櫓の名称
櫓はその広さや形、設置場所。納められていたもの、機能などにより、いろいろな名称で呼ばれています。

西日本の有力大名は城の敷地内にたくさんの櫓を建てており、広島城には78棟、岡山城で51棟もありました。これらは籠城のために建てられたと思われます。

戦いのないとき、櫓は主に貯蔵庫として使われていました。特に武器や武具などの軍需物資が多く、櫓の名前にも、鉄砲櫓、弓櫓、槍櫓、焔硝櫓、旗櫓などの名称が残っています。さらに籠城などの際の非常食を蓄えるための干飯櫓、塩櫓、荒和布(海藻のこと)櫓などがあります。

物資を蓄える以外にも櫓は使われました。特殊な使われ方をした櫓では、太鼓櫓があります。これは時間を知らせる太鼓を打つための櫓で、普通は二重櫓の2階部分に太鼓を置いて、音を遠くまで響かせるために、2階の窓を大きくしました。

この太鼓の音を合図に、城門の開け閉めが行われたのです。城によっては太鼓ではなく、鐘をつくところもあり鐘櫓と呼ばれました。

そのほか、海上を監視するための潮見櫓、内部に井戸を造った井戸櫓があります。
櫓に入ることができたのは、基本的に藩の担当者だけでしたが、城主が入るための櫓もありました。

ほとんどが風景や情緒を楽しむためのもので、代表的なものが月見櫓です。名前のとおり、月見のための櫓で、月を見るために最上階を開放的に造り、内部を座敷とするものが一般的で、破風や長押で飾って格式を高めたものが多く見られます。

台所として使用した「台所櫓」、藩士たちを集合させる「着到櫓」、道具などを収納する「納戸櫓」、人質を住まわせておく「人質櫓」「水櫓」「水手櫓」「井戸櫓」などは同じ意味でしょう。時報のための太鼓を置いたから「太鼓櫓」などと名付けられました。風流な名称のものとして「月見櫓」「潮見櫓」「富士見櫓」などがあります。

ただ潮見櫓はそこから海が見えたから、富士見櫓は富士山が見える方向を向いていたから付けられたのかもしれません。

また、子・丑・寅など、十二支の名がついているものは櫓の位置する方角を示しています。

東北にあるのがうしとら(丑寅)櫓、東南に巽(辰巳)櫓、西南が坤(未申)、西北が乾(戌亥)櫓となります。

見た目でつけられたのが「菱櫓」です。塁角が90度以上の場合、櫓も変形し菱形に見えます。変わったところでは、「多聞櫓」があります。塁上に築く細長い長屋形式の櫓で、その起源は松永久秀の居城、大和多聞城に築かれたのが始まりであると伝わっています。


櫓の語源
櫓とは、土塁や石垣上に構えられた建造物のことで、天守もこれに含まれます。
櫓の語源は「矢を射る建物」であり、古くは「矢倉」「矢蔵」と書かれていました。そのころの「矢倉」は、見張り台の意味もあり、弓矢を常備していたことからこの名称となっています。

中世も後期になりますと、かなりの高さがある「矢倉」が登場してきます。それは物見を目的としたものであり、城の内部だけでなく城下町にも築かれました。

多くは「井楼櫓」と呼ばれるものですが、これらが近世の櫓へと発展していくことになります。室町中期以前の櫓は、垣楯を壁の代用とした井楼形式のものが多かったようです。


櫓門と隅櫓
櫓は、城門の上に設けるものと、塁上にあげるものとがあります。前者を櫓門と呼びますが、なかに石垣の上に設けるものがありました。

これは特別に「楼」と呼ばれます。後者は「隅櫓」と総称されています。櫓が主に塁上の角に置かれた理由は、城外の見通しがよいからだと思われます。


櫓の種類
櫓の種類については、一層、二層、三層のものがあり、大部分が二層になっています。一層櫓としては大分城本丸隅櫓・小田原城三の丸隅櫓が、二層櫓には江戸城巽櫓・名古屋城隅櫓・二条城隅櫓など、三層櫓には明石城隅櫓・弘前城隅櫓・津城隅櫓があります。

慶長年間(1596~1614)以後、各大名の城が徐々に装飾化され、形式的な城になりますと、隅櫓の多くが同一形式の二層櫓になっていき、城郭建築の変化を乏しくしてしまいました。内部構造が二階になっている櫓もあります。

外からみると、屋根は二層なのですが、内部が三階のものもありました。特に大きな城の要所には三層の櫓が用いられました。

なかでも特に注意に値するのは、「御三階櫓」と呼ばれている櫓のある城です。この呼び名は、天守建築を示すものなのです。水戸城・高田城・弘前城・盛岡城などがこれにあたります。

また、中央が一層の櫓で、門の左右に二層三層の隅櫓を連ねた「天秤櫓」という変わったものもあります。近世に入って戦いもなくなりました。城も藩庁と化してくると、櫓の存在も変化してきます。
櫓の内部的機能だけに限らず、その外観上に大きく影響してきました。



天守と似た建物に三重櫓があります。櫓自体の歴史は古く、古代にはすでに存在していたといわれています。櫓はもともと物見のための仮設の建物だったため、中世の城においても、上階を立板で囲んだだけの簡単なものでした。

近世になると、天守と櫓は城の建物として常時建設されるものになっていきました。その中で大規模な三重櫓は天守と並ぶ偉容を誇りました。三重櫓は基本的には三階建でしたが、内部が四階構造の櫓や、二重でも三階の構造のものなどもありさまざまでした。

天守と三重櫓との区別は難しく、大きさや装飾だけからでは三重天守と三重櫓の違いを区別することは困難です。

たとえば三重五階の熊本城宇土櫓は三重三階の宇和島城天守よりはるかに大きく、また金沢城の三重三階櫓は唐破風造の出窓や廻縁があり、極めて格式高いものでした。

結局のところ、近世以降、四重以上の建物は天守とされました。
しかし、三重の場合では元和元年(1615)公布の「武家諸法度」で事務的に区別されました。

武家諸法度公布の前に天守として存在したもの、またはそれを公布後に改築した場合は天守とされましたが、公布後に新たに建てられたものは櫓ということになったのです。


三重櫓
三重櫓は最高の格式を持つ特別な櫓であり、その大きさは小型の天守と並ぶほどで、天守を持たない城では天守の代用とされました。

現存天守として数えられている弘前城や丸亀城の天守は、もともと天守代用の三重櫓なのです。また、東日本では天守代用の三重櫓が普通で、「御三階櫓」などと呼ばれていました。

天守代用とする以外に三重櫓を建てることは珍しいことでした。多くの三重櫓を建てていた城に、江戸城、徳川氏大坂城、姫路城、岡山城、熊本城、高松城などがあります。

三重櫓は、天守と同じように、望楼型・層塔型がありました。建築年代の古い三重櫓の多くは、一重目と二重目を同じ大きさに造り、その上に入母屋造の大屋根を造り、小さな三重目をその上に載せた望楼型となっています。

新式の層塔型天守ができ始めた慶長(1596)後期以降になると、三重櫓も層塔型になっていきます。層塔型の三重櫓には望楼型のような細長い平面のものはなく、正方形や短い長方形の平面で、床面積の小さな三重櫓が建てられるようになりました。

現在残る三重櫓のうち、もっとも大きなものは熊本城の宇土櫓です。三重五階、地下一階で、一階平面は九間に八間(一間は約2m)もあり、規模だけでは、姫路城、松江城天守に次ぐものです。

一方、現存する最小の三重櫓は弘前城二の丸辰巳櫓・未申櫓・丑寅櫓で、三つとも一階平面は最小限度の四間四方で、1階と2階を同じ大きさにすることで、3階を上げる(造る)ことができました。

二重櫓
二重櫓は、近世城郭の櫓の基本です。曲輪の隔や城壁の折れまがった出隅に建てられました。

また一階建ての多門櫓や城門の屋根越しに城外をうかがうのに2階建ての二重櫓は都合がよく、防備上重要なところに配置されました。

そのため数多く造られたので現存する例も多いのです。標準的な大きさは四間×五間(一間は約2m)で、二条城二の丸西南隅櫓や新発田城旧二の丸隅櫓などがこのくらいの大きさです。

しかし、一方で江戸城や徳川氏大坂城といった徳川幕府の造った大城郭では、巨大な二重櫓をいくつも配置しました。なかでも大坂城二の丸千貫櫓は八間×七間の規模で、小さな天守に匹敵するだけの大きさがありました。

三重櫓は、天守がない城では天守の代用となるだけに、櫓の中でも非常に格式の高いものでしたが、二重櫓はそれに比べれば格式が低いため、構造上の制約は少なかったのです。

そのためさまざまな形状の二重櫓が造られました。金沢城石川門二重櫓は、平面が歪んだ台形のため菱櫓と呼ばれています。また大坂城二の丸乾櫓はL字形をしていて、城内側の一部を造らないことで、材料費などを節約したとも考えられます。そうした櫓は名古屋城二の丸にもありました。

岡山城(岡山県)西の丸西の手櫓や高崎城乾櫓などは一階と二階が同じ大きさ(一階が二階よりも大きいのが普通)なので、その形から重箱櫓と呼ばれています。

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