今川義元は通説通りの悪役でダメな武将ではなかった!

今川義元の真相をテーマごとに分析

義元が「悪役」にされた理由
ときは天文4年(1535年)のこと。三河を統一した松平清康(徳川家康の祖父)が出陣中に家臣に背かれて殺される、という事件が起きた。あとを継いだ広忠(家康の父)は当時まだ10歳である。こんなとき、相手の弱味につけ込んで自分の勢力を拡大する、というのは戦国の世の習いだ。

事実、この混乱に乗じて、すぐに隣国の織田信秀(信長の父)が攻め込んできた。しかし、これはなんとか家臣が力を合わせて追い払ったものの、今度は広忠の大伯父の松平信定が、三河の乗っ取りを企てて動き出した。信定の勢いは日増しに強くなり、ついに広忠も身の危険を感じて、家臣の阿部大蔵といっしょに三河を脱出する羽目になった。

天文8年(1539年)、三河を脱出した広忠はしばらく伊勢に潜伏する。伊勢には義理の叔父である吉良持広の所領があったため、そこで匿ってもらったのである。ところが間もなく頼りの持広が死去してしまい、そのあとを継いだ義安が外交方針を変えたため、広忠は、ついにここにも居られなくなってしまうのである。 この家臣とふたりで右往左往するちっぽけな存在、広忠がここで消えてしまったら、もちろん、のちの徳川家康も誕生していなかった。しかし、この広忠の苦境を救ったのが今川義元なのである。

窮地に立たされた広忠の家臣、阿部大蔵は駿河へ向かった。駿河にいる義元に、「どうか、広忠様をお助け下さい」と、三河復帰の援助を嘆願するためである。 『家忠日記増補追加』には、このとき義元が、「廃れた家を再興させるは武家の名誉じゃ。広忠の亡父、清康とは昔からのつき合いも深かったことだし、亡き吉良持広殿とも固く約束もしたことだから、きっと力になってやろう」と、そのバックアップを力強く請け負ったことが記されている。 こうして翌天文9年(1540年)、今川家の加勢を受けた広忠は三河の牟呂城に入り、さらに譜代衆の協力を得て、ついに念願の本城、岡崎城へ帰城を果たすことができたのである。

義元が「大恩人」だといった理由がこれでおわかりいただけたと思うが、しばしこのまま、このあと義元が、松平家とどのように関わってきたのかについてもみてもらおう。 従来の通説は、こうして岡崎城の主に返り咲いた広忠が「義元に要求されて、泣く泣く竹千代(家康)を駿河に人質に出さざるを得なかったのだ」と、竹千代が義元の人質になったいきさつを伝えてきた。ところが、歴史学者の山室恭子氏は、その著書『群雄創世紀』(朝日新聞社刊)のなかで、この通説に疑問を投げかけている。

山室氏は『創業記考異』という史料に「一門や譜代のなかに敵の織田への内応者が出た広忠が、義元に加勢を頼んだため竹千代を人質に遣わした」とあることから、広忠のほうから「自発的に」竹千代を差し出したのではないか、というのである。

さらに、「義元のバックアップで脆弱な体制をなんとか維持していた広忠であってみれば、嗣子を人質に出して援軍を請うのは自然な行為であったと思われる」ともいっている。つまり、義元に「出せ」といわれてしぶしぶ出したのではなく、裏切り者が出て窮地に立たされた広忠が、援軍を出してもらうために自ら人質を出したのだろうというのだ。この意見は、広忠が義元の後ろ楯を得て、ようやく三河に復帰した、というこれまでのいきさつを思い返してみれば、もっともありえそうなことである。

さて、こうして人質となった竹千代が、駿河でどのような扱いを受けていたかということについても、従来の説は、いかにも竹千代が肩身の狭い思いをしてきたようなことをいって、幼き日の家康の苦労を強調してきた。しかし、『家忠日記増補追加』という史料には「竹千代を迎えた義元は大いに喜び、駿府に新しい館を建てて与え、家臣を付けて慇懃に扱った」と記されているのだ。

こうして見てくると、ちゃんと別の様子を伝える史料があるのに、わざと義元のイメージが悪くなる方を選んで出来たものが、これまでの通説だったのではないか、という疑いが湧いてくるだろう。実をいうと、前に見た『三河物語』のあの話、義元が「三河の年貢を残らず横領して、譜代衆には十年余り給料を支払わなかった」という話についても、この『家忠日記増補追加』では、別の様子を伝えているのである。

これにも、「義元が『竹千代が成長するまで三河は自分が預かる』といって代官を三河に派遣したときには、さすがに譜代衆たちも領地から追い出されるのではないかと心配した」と記されてはいるものの、この史料では続けて、「そのあとすぐに駿河にいた竹千代から譜代衆たちに『父、広忠から貰った領地は今までどおりに直接支配するように』という証文が配られたため、最終的にはみんな安心した」といっているのである。 結論からいうと、『三河物語』のいうような「年貢を残らず横領された」という事実はなかったというのが見解である。

だとしたら、どうして「大恩人」の義元が、三河の譜代衆や徳川家をいじめた「悪役」にされてしまったのか?実は、このことを考えれば、なぜこれまでの通説がウソだったといえるのか、その答えも出るのである。

義元が「悪役」にされた理由は徳川家が行なった「歴史偽造」の結果である。 なぜ、偽造を行なったのかというと、このあとの歴史を見れば明らかなように、徳川家は義元から受けた恩を仇で返している。桶狭間で義元が討たれると、すぐに今川家を見限って独立し、その後、弱体化した今川家の領土をじわじわと侵食し、最終的には大名としての今川家を完全に消滅させたのである。

大恩人に対して行なったこれらのことは、やがて天下を取って日本じゅうの大名を統制する立ち場になった徳川家にしてみれば、できれば無かったことにしておきたい過去だったのだ。そこで、後世、御用学者たちによって徳川家の「正史」が編纂されたとき、彼らは義元から施された「大恩」についてはなるべく触れないようにして、さらには義元を「悪役」に、そして自分たちを「被害者」にすることで、「今川家を裏切って滅ぼした」というマイナスイメージを払拭しようとしたのである。

ちなみに、これまで通説の反証として挙げてきた『創業記考異』や『家忠日記増補追加』などの記述が、徳川家側のものでありながら比較的信用できる史料だと判断したのは、これらが徳川家による「歴史の偽造」が行なわれる前に成立していたものだったからである。 それにしても義元は、いわれのない理由によって「軟弱で愚かな武将」にされたり、「悪役」にされたり、つくづく損な役回りばかりを与えられた武将であった。


本当に義元は「馬にも乗れない」軟弱な武将だったのか?
どうも、今川義元は、いろいろなところで損をしている。 彼は戦国時代を語るうえでとても重要な人物だし、有名でもあるが、なんでかといえば、 「桶狭間の戦いのとき、織田信長が討ち取った人」とか、「若き日の徳川家康を入質にとって、三河武士(家康の家臣たち)を苦しめた人」というふうに、信長の奇跡的な大勝利や、家康の苦労を語るうえで欠かせない「名脇役」だからである。 おそらく多くの人は、桶狭間の戦いを知ったついでに、今川義元という人物を知ったことだろう。

これも義元には気の毒な話だ。なぜなら彼はこの戦いで、2万5000という大軍を率いながら、たつた2000の敵に討たれるという、日本合戦史上未曾有の大敗を喫してしまったからである。 ところで、どうして義元は10倍以上の大兵力を擁しながら、信長に負けてしまったのかという問題。

これまでの通説は、以下のように説明してきた。理由の一は、兵力に劣る信長が奇襲攻撃という戦法に出て、これが見事に功を奏したということ。 理由の二は、このとき義元は「桶狭間」という低地に本陣を置いたのだが、それがよくなかったということ。

ちなみにふつう本陣は、山上などの高地に置くのがセオリーだ。なぜなら、高地にいたほうが、攻撃にも防御にも有利だからである。 理由の三は、義元をはじめ今川勢が油断していたということ。 前の、低地に本陣を置いた、というのも油断の現れといえるだろうが、この本陣で今川勢は、あろうことか酒盛りをしていたというのである。 山中を迂回してきた織田勢が今川勢の背後の山から駆け下ってきたのは、ちょうどこのときだった。

結果、今川勢は大混乱に陥って敗走し、なんと、総大将の義元までが討ち取られてしまった というのが従来の通説なのだが、もし、これをそのまま信じるならば、この大敗北の原因は、敵の奇襲をまったく警戒していなかった総大将の義元にあったといってもいいだろう。 しかし、この通説はウソなのである。

実は、のちになってから書かれた軍記物類のなかで、義元は、「お歯黒を付けた、部の貴族のようだった」とか「胴長短足で、馬にも乗れなかったため、桶狭間のときは輿に乗っていった」などと、いかにも「軟弱な武将」であったかのような書かれ方をしているが、おそらくこのイメージも、先に流布していたこの「通説のウソ」から生まれた中傷だろうと考えている。

であるならば、彼の名誉を回復するため、まずはこのウソを正すことからはじめよう。 ちなみに義元は、本当にお歯黒はしてたかもしれないが、馬に乗れなかったわけではない。かなり信頼できる『信長公記』にはちゃんと、この桶狭間の戦いのとき、彼が馬に乗って退却した様子が記されているからである。

セオリーどおりに布陣していた義元
桶狭間の戦いは、通説とどこが違うのだろうか? まずは、今川方からみていくと、通説では義元が「桶狭間」という低地に本陣を置いたことになっていたが、『信長公記』が伝えるところは「おけはざま山」となっている。この山は、明治時代に作られた地勢図から判断して、おそらく現在の桶狭問集落の北束の丘と思われるのだが、だとしたら義元は、戦場全体を見渡せる丘陵上に布陣していた、ということになるのである。 さらに、このとき義元は、敵の進出に備えて、本陣の北西の位置に、前衛部隊を配備している。

ここでさっそく、通説のウソを正しておくなら、今川勢は、ちゃんと高地に布陣していたし、しっかりと敵の襲撃にも備えていた。つまり、義元は油断していたどころか、打つべき手は抜け目なく打っていたことになる。 そういえば、今川勢が本陣で酒を飲んでいたなどという話もあったが、これも『甫庵信長記』にあって『信長公記』にはない話だ。 それならば、なぜ義元は負けてしまったのか? 申し訳ないが、この疑問を頭の片隅に置いたままで、今度は織田方の動きを見てもらいたい。

『信長公記』によれば、織田勢は、まず最前線の中嶋砦に兵力を集中させる。そしてそこからまっすぐに目の前の敵(前述の義元が本陣の北西に配置したという前衛部隊)を、ほぼ全力(2000人)で攻撃したことになっている。

すると、意外なことに、織田勢に備えていたはずの今川前衛部隊が、あっけなく敗走してしまったのである。『信長公記』には、「水をまくるように後ろへどっと崩れた」とある。当然、織田勢は勢いに任せてこれを追撃した。そうするうちに、今度は偶然、退却する義元の本隊を発見したのである。もちろん、信長にとっては千載一遇の好機だ。

「旗本はこれだ。これへかかれ」(『信長公記』)と、信長は攻撃を義元を護衛する部隊に集中させるよう指示している。その結果、ついに義元を討ち取ったというのである。 ところで、ここでいったん、義元が2万5000の兵を率いていた、という先入観を捨てていただきたい。なぜならそうしたほうが、これから述べようとする桶狭間の戦いの真相が理解しやすくなるし、実際問題、この大軍がひと固まりになってずっと義元と共にあったわけでもないからである。

さて、すぐ前にみた話を、もう一度思い返していただくと、ここに出てきた織田勢は一隊。かたや今川勢のほうは、前衛部隊と本隊の合わせて二隊であった。だが、今川の前衛部隊はほとんど戦わないで敗走している。ということは、このとき実際にこの戦場で激しい戦闘を交えたのは、追撃した織田勢と、退却中の義元の護衛隊、この二隊だけだったということである。

そもそも信長が中嶋砦から出撃したときの意図は、目の前に展開している目障りな敵の部隊を追い払ってしまおう、というものだったはずである。つまり、この戦いは、もともとはこの広い戦場のなかの一局地戦で終わるはずのものだったのだ。ところが義元にとって不幸だったのは、普通なら「たかが」で片付けられるこの一局地戦での敗北が、あれよあれよという間に、そのまま総大将の敗死へとつながってしまったということである。

狭間といわれる地形ではじまった局地戦。義元にすれば、いまこんなところで戦っても大軍の利点を活かせないから退却しよう、というところで敵に捕まってしまったのだ。思えば、そうならないようにと配置しておいたはずの前衛部隊が、なんの役にも立たなかったどころか、逆に、敵の主力部隊を味方の本陣に誘導する、という皮肉な結果をもたらしてしまった。本当に、このときの義元はついていなかったというのが、この戦いの真相である。

しかし、結果をみれば、大敗北したことに変わりはないわけで、新たにこれを、大軍を擁していながら、その兵力差を活かせなかった義元の落ち度だ、ということもできるだろう。 ただ、そんな批判は甘んじて受けたとしても、少なくとも通説が伝える「落ち度だらけの義元」にくらべれば、かなりのイメージアップにはなったはずだ。



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